第二話 布告の前夜
翌朝、国境の空は晴れていた。
雪は、夜のあいだに止み、凍りついた地面だけが白く光っている。晴天は見通しをよくする。見通しがよくなれば、誰がどこにいるかがわかる。わかれば、撃てる。
ルスカ自治州の監視塔では、見張りの兵たちが交代のたびに東の尾根を双眼鏡でなぞっていた。尾根の向こうはハイネ帝国領だ。木々のあいだに何かが動けば、すぐに報告が上がる。だが今朝に限っては、何も見えないことが余計に不気味だった。
「静かすぎる」
塔の上で兵が呟いた。
その言葉に、誰も返事をしなかった。
エーリヒ・ヴァルナー少尉は、夜営地で冷えきった手を焚き火にかざしながら、前方から戻った斥候の報告を聞いていた。
「連合側監視塔に増員あり。旗信号の数も増えています」
「砲の搬入は」
「確認できず。ただし荷車の往来が増加」
「住民の移動は」
斥候は一瞬言いよどんだ。
「……村がひとつ、空になっていました」
焚き火の薪が小さく爆ぜた。
「空とは」
「人がいません。家財の一部は残っていましたが、家畜は連れていかれてます。避難か、徴発かは不明です」
エーリヒは黙って頷いた。村が消えるのは、戦争の前触れとしては珍しくない。珍しくない、ということがすでに異常なのだが、軍ではそれをいちいち口にしない。
斥候が去ったあと、ブルーノ軍曹が火を見つめたまま言った。
「少尉、昨日の木箱ですが」
「聞かないことにしていたはずだ」
「俺は聞きません。ただ、知っておいたほうがいい」
エーリヒは視線だけを向けた。
「前進配備されるのは通常弾薬だけじゃありません。魔導工兵隊も来ます」
「工兵隊が何を」
「橋を落とすか、道を焼くか、あるいはその逆です」
ブルーノはそこで言葉を切った。
「正式布告前にやる仕事じゃない」
エーリヒはそう言ったが、声に自信はなかった。
帝国は秩序を重んじる。少なくとも表向きには。布告もなく国境工作を進めるなど、国是に反する。だが現実の軍は、国是より速く動くことがある。
「少尉」
ブルーノは火の向こうから静かに言った。
「戦争ってのは、始まってから始まるんじゃないんです」
その言葉は、焚き火の熱よりも不快に胸に残った。
ルスカ自治州臨時診療所では、リアが包帯の不足を数えていた。
「あと三日」
棚を見ながら彼女が言うと、マルタが鼻で笑った。
「三日もつなら上等」
「薬は二日です」
「じゃあ二日ね」
診療所の中は、朝から人の出入りが絶えなかった。怪我人だけではない。避難民、行方不明者を探す家族、州兵の伝令、議会の役人。皆が慌ただしく動き回るのに、必要なものだけが何ひとつ増えない。
リアは記録用紙に欠品を書き込みながら、待合の隅に見覚えのある顔を見つけた。昨日、祖父を亡くした少女だ。毛布を肩にかけたまま、椅子の端に座っている。母親の姿はない。
リアは近づいた。
「具合が悪いの?」
少女は首を横に振った。
「じゃあ、どうしたの」
「証言が足りないって言われた」
リアは言葉を失った。
少女は膝の上で指を組んだまま、床を見ていた。
「また来るって。ちゃんと思い出しておけって」
その声音には怒りも泣き声もなかった。ただ疲れていた。十四歳の子どもにしては、妙に乾いた疲れ方だった。
「名前は?」
「ミナ」
「私はリア」
少女は小さく頷く。
「ミナ、無理に思い出さなくていい」
そう言いながら、リアは自分の声がどれだけ無力か知っていた。無理に思い出さなくてよくても、大人たちは思い出させる。証言は武器になる。武器が必要な時、子どもの心は後回しにされる。
「でも、みんな帝国がやったって」
ミナはぽつりと言った。
「そう言えば、守ってもらえるのかな」
リアはすぐには答えられなかった。
連合は防衛のために戦う、と広報は言う。だが守るために集められるものの中には、食料も、兵も、証言も含まれる。守るという言葉は、いつもきれいすぎる。
「……わからない」
結局、リアはそう言った。
「でも、わからないことを、わかったことにしなくていい」
ミナは少しだけ顔を上げた。その目には、期待より先に、疑いがあった。大人の言うことはだいたい後で変わる、ともう知っている目だった。
「本当に?」
「本当」
リアはそう言ったが、その約束を守れる立場にはいなかった。
帝都グランヘルでは、セシル・ノイマンが前夜に出した声明への反応を集めていた。
新聞各紙はおおむね帝国政府の発表をなぞっている。国境での不穏な事件、連合側の性急な非難、帝国の理性的対応。市民向けには十分だ。だが外交筋から上がってくる報告は別の顔をしていた。
「連合側は国境警備隊の増員を公表」
「北方諸州で予備役召集の準備」
「国外商会が穀物価格上昇を予測」
紙束をめくりながら、セシルは眉間を押さえた。戦争前夜には、いつも穀物が先に騒ぐ。人間より市場のほうが危機に敏感だ。
扉が叩かれ、局長が入ってきた。太った男で、香の強い手袋をしている。
「ノイマン君、東方方面軍から追加資料だ」
差し出された封筒は軍の封蝋で閉じられていた。セシルが中身を開くと、短い報告書が一枚。住民死傷事案に関する現地調査。要点だけが並んでいる。
発射源、不明。
兵器種別、推定困難。
住民証言、錯綜。
連合側の政治的利用の兆候あり。
そして最後に、手書きの追記があった。
「広報上、帝国軍関与の可能性を完全否定する方針を維持されたし」
セシルはその一文を見つめた。
「可能性を完全否定」
妙な言い回しだった。関与していない、ではない。可能性を否定する。つまり、可能性について話している時点で、内部ではゼロだと思っていない。
「どうした」
局長が尋ねる。
「いえ」
セシルは紙を畳んだ。
「ずいぶん急いでますね」
「連合が騒げば、こちらも先に形を決める必要がある」
局長は窓の外を見た。帝都の空は青く、遠くの尖塔が陽を受けて白く光っている。
「国民は曖昧さを嫌う。敵がいるなら敵だと、事故なら事故だと、はっきり言わねば不安になる」
「真実が曖昧でもですか」
セシルが聞くと、局長は少し笑った。
「真実は後から整う」
その言葉は、あまりにも自然に出てきた。
セシルは喉の奥に冷たいものを感じた。広報院に入ってから何度も似た言葉を聞いたが、今日は妙に重かった。たぶん、写真の老人の顔をまだ忘れていないからだ。
昼過ぎ、ルスカ自治州の州庁舎前広場には人が集まり始めていた。
帝国への抗議集会。名目はそうなっていたが、実際には怒りの行き場を求める群衆だった。パン屋の主人、荷運び人、教師、兵の家族、避難してきた村人。誰もが寒さに頬を赤くしながら、口々に帝国を罵った。そうしないと、自分たちが今どこに立っているのか確かめられないように見えた。
リアは薬品受領のため州庁舎へ来て、その帰りに足を止めた。広場の端にはミナもいた。母親に手を引かれている。少女は群衆の声に飲まれないように、口を硬く閉じていた。
壇上では州議会議員が声を張り上げている。
「これは単なる事件ではない。ハイネ帝国による露骨な威圧であり、我々の自治と尊厳を踏みにじる行為だ」
拍手と怒号が上がる。
「連合は結束しなければならない。今こそ一つになり、侵略に備える時だ」
リアは群衆を見た。怒っている者、怯えている者、興奮している者。だが誰の顔にも、昨日までの生活はもう残っていない。たった一人の死が、こんなにも早く人々の輪郭を変える。
その時、広場の外れで小さな騒ぎが起きた。旅装の男が二人、群衆に囲まれている。訛りの強い言葉を話していたらしい。
「帝国の間者だろ」
「違う、商人だ」
「こんな時に国境近くをうろつくか」
誰かが男の肩を突き飛ばした。荷物が落ち、中から乾燥肉と布束が転がる。商人のひとりが抗議しようとした瞬間、別の誰かが頬を殴った。
リアは反射的に走り出しかけたが、足を止めた。止めたというより、止まらざるを得なかった。群衆の熱は、正しさより速い。今あそこへ入れば、自分まで飲まれる。
結局、州兵が駆けつけて男たちを連行した。保護なのか拘束なのか、見ている側には区別がつかなかった。
壇上の演説は続いている。
ミナはその様子を見ていた。祖父の死が、見知らぬ誰かを殴る理由になっていくのを、黙って見ていた。
その日の夕刻、ハイネ帝国東方方面軍第三補給路に命令が届いた。
「本日二一〇〇時をもって前進準備段階へ移行。全隊、夜間行軍に備えよ」
伝令が読み上げると、兵たちの顔つきが変わった。誰も歓声は上げない。戦争を知らない新兵ほど、こういう時は静かになる。自分が何に巻き込まれつつあるのか、まだ言葉にできないからだ。
エーリヒは命令書を受け取り、末尾の署名を見た。東方方面軍総司令部。やはり早い。早すぎる。
「少尉」
ブルーノが近づく。
「先遣の工兵がもう動いています」
「どこへ」
「国境河川沿いです」
橋だ、とエーリヒは思った。落とすにせよ、押さえるにせよ、橋を先に確保するつもりだ。
「連合側の布告はまだない」
「こっちもです」
ブルーノは淡々と言う。
「だから夜にやるんですよ」
エーリヒは返事をしなかった。士官学校で習った地図の上では、戦争は布告によって始まることになっていた。だが現場では、橋を押さえた時点で始まる。誰かの村から人が消えた時点で始まる。
夜の準備が進む中、若い兵士がひとり、震える声で尋ねた。
「少尉、これは演習じゃ……ないんですか」
エーリヒはその顔を見た。まだ髭も薄い、田舎から出てきたばかりの少年だった。彼の手は銃より先に、母親の手紙を握りしめるのに向いていそうだった。
「命令は命令だ」
そう答えるしかなかった。
兵士は頷いたが、納得した顔ではなかった。納得できる者など、たぶん誰もいない。
夜、帝都グランヘル。
セシルは執務室に残り、窓の外の街灯を眺めていた。机の上には新しい声明文の草案がある。連合側の軍備増強を受け、帝国は自衛のため必要な措置を講じる。平和を守るための警備強化。いつもの言葉だ。誰もが使い、誰も信じていない種類の言葉。
扉の外で足音が止まり、若い伝令が封書を届けた。東方方面軍からの極秘連絡。
セシルは封を切り、中身を読んだ。
「先遣部隊、予定通り移動開始」
たった一行だった。
彼はしばらく紙を見つめ、それからゆっくり目を閉じた。これで、もう後戻りは難しい。まだ開戦布告はない。だが軍は動き出した。連合もじきに動く。双方が「相手の脅威への対処」と言い張りながら、同じ崖へ進んでいく。
セシルは机の引き出しから、昨日の写真を取り出した。雪の上の老人。顔には驚きが残ったまま。
「あなた一人で済んでいればよかったのに」
思わずそう呟いて、自分で顔をしかめた。ひどい言葉だった。だがもっとひどい現実が、その先にあるのを知っていた。
済むはずがない。
国家は一人で止まらない。
一人死ねば、十人分の理屈が作られ、百人分の命令が下り、千人分の墓が必要になる。
同じ夜、ルスカ自治州の集会所で、ミナはまた眠れずにいた。
外では州兵の足音が行き来している。母は疲れ果てて寝息を立てていた。毛布の中で目を開けたまま、ミナは祖父が最後に見た空を思い出そうとした。
あれは本当に帝国の方角だったのか。
光はあったのか。
音はしたのか。
思い出そうとするたび、記憶は他人の言葉に塗りつぶされていく。
帝国の仕業。
越境攻撃。
証言。
報復。
防衛。
祖父の死より先に、大人たちの言葉が大きくなる。
やがて遠くで、鈍い音がひとつ鳴った。
雷ではない。冬の空に雷は鳴らない。地面の底を叩くような、短く重い音だった。
集会所の中で何人かが目を覚ます。母も身じろぎした。
少し遅れて、もうひとつ。
もっと遠くで、もっと低く。
ミナは起き上がり、窓のほうを見た。闇の向こう、国境の方角は何も見えない。ただ、見えないまま、何かが始まっている音だけがする。
国境河川沿い、深夜。
ハイネ帝国先遣工兵隊は、凍りついた岸辺で橋梁確保の作業に入っていた。命令は迅速、静粛、確実。だが静かな作業ほど、ひとたび崩れれば大きな音を立てる。
誰かが足を滑らせたのか。
連合側が先に気づいたのか。
あるいは、最初から互いに待ち構えていたのか。
闇の中で一発、銃声が響いた。
次いで二発、三発。
川面に火花が散り、怒号が上がり、凍った空気が一気に破れた。
正式な布告は、まだどこにも出ていない。
だがその夜、ハイネ帝国とテリル連合国のあいだで、初めて「偶発では済まない数」の弾が飛んだ。
雪原に伏せた兵士のひとりは、自分が誰に撃たれているのかもわからないまま、暗闇へ向けて引き金を引いた。向こうの兵士も同じだった。国家の名は背負っていても、闇の中では互いにただの影にすぎない。
その影の上に、翌朝にはそれぞれ別の言葉が載せられる。
帝国は言うだろう。連合側の先制攻撃に対し、やむなく応戦したと。
連合は言うだろう。帝国軍の越境侵入を確認し、防衛行動に出たと。
どちらも、たぶん嘘ではない。
どちらも、たぶん本当ではない。
夜明け前の国境で、最初の小規模衝突はそうして始まった。
雪はまだ白かった。
だが朝になればその白さが何を隠しているか、誰の目にもわかるようになる。
