第三話 最初の報せ
夜明けは遅かった。
雪雲が低く垂れこめ、東の空が白むまでに時間がかかった。そのわずかな灰色の変化を待つあいだ、国境河川沿いでは銃声が断続的に続いていた。撃っている側にも、何を撃っているのかよく見えていない。ただ、向こうに人がいるはずだという予感だけで引き金が引かれる。予感は恐怖より安く、命より軽い。
ハイネ帝国先遣工兵隊の後方で、エーリヒ・ヴァルナー少尉は膝まで雪に埋まりながら前線伝令を受けていた。
「第一班、橋脚下で損耗。工兵二、護衛兵三、負傷多数」
「連合側兵力は」
「不明。監視塔からの支援射撃あり」
「第三小隊が接近中ですが、河岸が滑って進みません」
伝令兵は早口で言い終えると、肩で息をした。頬が煤で汚れている。まだ若い。昨夜、演習ではないのかと尋ねた兵とは別の顔だが、同じ種類の青さが残っていた。
エーリヒは地図を開いた。夜のうちに押さえるはずだった橋が、まだ半分も確保できていない。連合側の反応が予想より早すぎる。偶然の遭遇ではない。向こうも待っていたのだ。
「工兵隊は撤収できるか」
「無理です。橋脚に資材が残っています」
残った資材を回収できなければ、帝国軍が先に橋梁工作を行っていた証拠になる。エーリヒはその事実を理解し、同時に理解しないふりをしたくなった。
「少尉」
ブルーノ軍曹が横に並ぶ。
「前へ出るしかありません」
「補給部隊を前に出せと?」
「橋を失えば、後で何倍も血が要る」
エーリヒは唇を結んだ。士官学校では、こういう時の答えは明快だった。要衝を確保し、損害を最小化し、任務を達成する。だが現実には、最小化される損害はいつも誰かの具体的な肉体だった。
「第三小隊を前進。工兵を回収しろ。橋脚下の資材は焼却」
「了解」
命令を出した瞬間、エーリヒは自分の声が少し変わったのを感じた。迷いが消えたのではない。迷いごと押し込めて、命令だけを外へ出す声になった。
そのとき、川の向こうから一発、乾いた音がした。
伝令兵の肩が跳ね、遅れて血が噴いた。
彼は何が起きたのかわからない顔のまま、その場に膝をつき、地図の端を掴んだまま倒れた。雪の上に広がった血は、夜のあいだに降った粉雪をゆっくり溶かしていく。
エーリヒは一瞬だけ動けなかった。
ブルーノが伝令兵を引きずり、怒鳴る。
「伏せろ、少尉」
その声でようやく体が動いた。エーリヒは雪に伏せ、耳の横を弾が掠める音を聞いた。音は思ったより細い。人が死ぬには、あまりに細い音だった。
ルスカ自治州臨時診療所に、最初の本格的な搬送が来たのは朝七時過ぎだった。
荷馬車二台。担架六。歩ける負傷兵が九。うち三人は途中で意識を失っていた。
「場所を空けて、急いで」
マルタが叫び、リアは入口の戸を押さえながら一人目の担架を受け取った。若い州兵だった。腹部に銃創。厚い布を何重にも巻いてあるが、もう染みきっている。
「名前は」
「グレン……第二監視隊……」
「意識はある。水はだめ、布を切る」
リアがはさみを入れると、兵は低く呻いた。冬の冷えた空気の中で、腹の奥から出る血だけが妙に温かい。彼女はその熱に手を濡らしながら、昨夜までの「まだ戦争ではない」という言葉が完全に死んだことを知った。
「次、こっちは脚」
「そっちは後回し、呼吸が浅い」
「医師は」
「足りない、こっちでやるしかない」
診療所はすぐに飽和した。床にまで毛布が敷かれ、負傷者が並べられる。泣き叫ぶ者は少ない。痛みが深いほど、人は静かになる。代わりに、付き添いの兵や伝令が怒鳴る。薬を寄越せ、先に見ろ、こいつはまだ若い、あいつは隊長だ。戦場の入り口では、命に順番をつけたがる声ばかりが増えていく。
リアは二人目の負傷兵の袖を切り裂き、凍りついた布の下から焼けた皮膚を見た。魔導熱傷だった。皮膚の色が不自然に灰色へ寄り、肉の匂いが鉄より先に鼻を刺す。
「帝国が使ったの?」
思わず口をつくと、兵は荒い息の合間に笑った。笑いというより、歯を見せただけだった。
「こっちも使った……見えなかっただけだ……」
リアは手を止めかけた。
「何が」
「夜で……誰が先かなんて……」
そこで彼は咳き込み、血を吐いた。もう話せなかった。
リアは唇を噛んだ。誰が先かなんて。たぶんそれが、この朝いちばん正確な言葉だった。
帝都グランヘル、中央広報院。
セシル・ノイマンの机には、朝から報告が積み上がっていた。国境地帯で武力衝突。帝国軍数名死傷。連合側の越境射撃を確認。東方方面軍、限定的応戦。連合側は「帝国の侵入に対する防衛」と主張。
予想通りだった。予想通りであることが、むしろ気味悪かった。
「閣議前に第一報を出します」
秘書官が言う。
「文案は昨夜の草案を基に調整済みです」
セシルは受け取った紙に目を通した。
「本日未明、テリル連合国側武装部隊による帝国領への威嚇的射撃および国境地帯における不法な軍事行動が確認された。帝国軍は自国領と住民の安全を守るため、必要最小限の防衛措置を講じた」
整っている。滑らかで、読みやすく、そして何も見えない文章だった。橋脚下に残された資材も、夜陰で撃たれた工兵も、凍った川岸で腹を押さえて呻く兵士も、どこにもいない。
「限定的応戦、ですか」
セシルが呟くと、秘書官は首を傾げた。
「事実と違いますか」
「事実の形が、もう少し泥だというだけです」
秘書官は意味を理解したのかしないのか、曖昧に微笑んだ。
局長が慌ただしく部屋へ入ってきた。
「ノイマン君、急げ。宮内府も文言を確認したがっている。陛下の名に傷がつかぬよう、帝国はあくまで防衛側でなければならん」
「軍の先遣行動については」
セシルがそう言いかけると、局長は手を上げた。
「触れるな」
短く、はっきりと。
「記録に残す必要がないことまで、君が背負う必要はない」
その言い方は親切にも聞こえた。だが実際には、背負わない代わりに黙れと言っているだけだった。
セシルは返事をしなかった。
窓の外では、帝都の市民がいつも通りに通りを歩いている。パンを抱えた女、新聞売り、馬車を急がせる商人。彼らの朝はまだ壊れていない。壊れていないからこそ、広報院の言葉が必要になる。遠くで起きたことを、近くでは起きていない形に整えるために。
ルスカ自治州の州庁舎では、臨時会議が始まっていた。
連合本部からの使者、州議会議員、警備隊幹部、自治州代表。皆が同じ地図を囲みながら、見ているものは少しずつ違っていた。
「帝国が橋を押さえに来たのは明白です」
「ならば越境意図ありと公表すべきだ」
「証拠は」
「工兵資材が残っている」
「回収できるのか」
「砲火の中では困難だ」
言葉が飛び交う。誰も黙って考える時間を持たない。考えるより先に、立場が口を開く。
会議室の隅で記録係をしていた若い文官は、上役の指示で議事録からいくつかの発言を削った。証拠不十分、誤認の可能性、偶発衝突。そういう語は今の空気に合わない。残すべきなのは、結束、防衛、侵略、断固たる対応。国家が必要とする語彙は、いつも感情の輪郭に似ている。
会議の外、廊下の長椅子にはミナが座っていた。母が証言の再確認に呼ばれているのだ。少女は膝の上で手を握りしめ、閉じた扉の向こうの声を聞いていた。断片しかわからない。だが自分の祖父の死が、あの部屋ではもう一つの材料として扱われていることだけはわかった。
扉が開き、母が出てきた。顔色が悪い。
「帰ろう」
それだけ言って、ミナの手を引く。
「何て言ったの」
歩きながらミナが聞くと、母は少し迷ってから答えた。
「あなたのおじいちゃんは、帝国の攻撃で亡くなったって」
「でも、わからないって」
「今は、そう言うしかないの」
母の声には疲れが滲んでいた。信じているから言うのではない。ただ、そうしなければ自分たちが置いていかれるのだと知っている声だった。
ミナはそれ以上何も言わなかった。
言っても変わらないと、もう学び始めていた。
国境河川沿いの衝突は、昼前にはいったん収束した。
双方とも本格的な大隊規模投入までは踏み込まず、負傷者の回収と陣地の再整理に移ったからだ。だが収束は終息ではない。単に、次の撃ち合いまで息を継いでいるだけだった。
エーリヒは川岸の窪地に設けられた仮設救護所を訪れた。負傷者の確認と、部隊状況の把握のためだ。実際には、自分が出した命令の結果を見に来たのだとわかっていた。
毛布の下で、朝の伝令兵が横たわっていた。肩から胸へ抜けた弾で、もう意識はない。軍医が首を振る。
「長くは持ちません」
エーリヒは頷いたが、何を言えばいいのかわからなかった。名前を聞くべきかと思ったが、聞いたところで何になる。知らなければ楽だという卑怯さと、知らないままでいることの薄汚さが、同時に喉へ詰まった。
「橋脚下の資材は」
代わりにそう聞くと、工兵士官が答えた。
「一部焼却、残りは回収不能です」
「連合側に押さえられる可能性は」
「あります」
その一言で十分だった。帝国が先に動いていた痕跡は、向こうの手に渡るかもしれない。ならば連合側はそれを侵略の証拠として使うだろう。帝国は捏造だと言うだろう。そしてその応酬のあいだに、また兵が死ぬ。
仮設救護所を出ると、ブルーノが待っていた。
「少尉、司令部からの通達です」
「読め」
「本件を連合側の武力挑発と認定。全部隊は防衛行動の名目を厳守しつつ、戦術的優位の確保に努めよ」
エーリヒは思わず笑いそうになった。防衛行動の名目を厳守しつつ。戦術的優位の確保。矛盾を包帯みたいに巻きつけた文だ。
「つまり」
「先に手を出したことは言うな。だが有利には立て、ということです」
ブルーノは平然と言った。
「便利な命令だな」
「便利ですよ。責任が上に逃げる」
エーリヒは返事をしなかった。
雪の上に、回収しきれなかった死体がまだ二つ残っていた。どちらが帝国兵でどちらが連合兵か、遠目には区別がつかない。国境とは不思議なもので、地図の上では太い線なのに、死体の上では何も分けない。
午後、臨時診療所。
リアはようやく手を止める時間を得て、壁にもたれた。指先の感覚が薄い。何人縫ったのか、何人を諦めたのか、途中から数えていない。
マルタが紙コップに薄い湯を入れて差し出した。
「飲みなさい」
リアは受け取り、一口で顔をしかめた。薬草を煮ただけの苦い湯だ。
「外で演説してる」
マルタが言う。
「もう?」
「もうよ。帝国の卑劣な侵略に屈しない、だって」
リアは目を閉じた。
「侵略だったのかな」
「そう言ったほうが人は動く」
「本当かどうかじゃなくて?」
「今さらそれを言うの」
マルタの声に責める響きはなかった。ただ、呆れる余裕もない疲れだけがあった。
「本当かどうかなんて、戦争が終わった後でも決まらないことがある。今必要なのは、誰に怒るかよ」
リアは紙コップを見つめた。苦い湯の表面に、自分の顔が歪んで映っている。
「怒れば、助かるのかな」
「助からない」
マルタは即答した。
「でも、何もしないよりは自分がまだ人間だと思える」
その言葉は正直すぎて、リアには少し痛かった。
奥の寝台から、朝の負傷兵のひとりが静かに息を引き取った。誰も大声では知らせない。布を顔にかけ、次の患者へ移る。死が増えると、儀式は短くなる。
夕刻、帝都では号外が出た。
ハイネ帝国、国境にて連合側挑発を撃退。
帝国軍、住民保護のため断固対応。
平和を乱すのは誰か。
セシルは印刷された紙面を手に取り、数秒だけ見つめ、それから机へ置いた。見出しは強く、本文は穏やかで、全体としては読者に考える余地を与えない構成になっている。よくできていた。よくできているからこそ、嫌だった。
「市民の反応は上々です」
秘書官が言う。
「志願兵窓口への問い合わせも増えています」
セシルは目を上げた。
「もう志願を煽る段階ですか」
「煽ってはいません。自発的な愛国心です」
その言い方に、彼は何も返さなかった。
愛国心。国がそれを必要とする時、だいたい前線では棺が足りなくなる。
窓の外では、新聞を抱えた少年たちが通りを走っていく。帝都の人々は紙面を読み、帝国が攻撃されたと知り、怒り、安堵し、あるいは誇らしく思うだろう。彼らの感情は本物だ。だからこそ厄介だった。本物の感情は、嘘の文章よりずっと強く戦争を押し進める。
その夜、ミナは集会所の外へ出た。
空気は刺すように冷たく、吐く息がすぐ白く砕けた。遠くの空に、かすかな赤みが見える。国境の方角だ。火かもしれない。夕焼けではない。夜はもう深い。
隣に、いつの間にかリアが立っていた。診療所からの帰りらしく、肩に血の染みた布袋を下げている。
「眠れないの」
リアが聞く。
ミナは頷いた。
「また音がするから」
二人はしばらく黙って空を見た。低く、重い音がときどき響く。大砲ではない。まだそこまで大きくはない。けれど、人が人を殺そうとしている音には十分だった。
「ねえ」
ミナが言った。
「戦争って、いつ始まるの」
リアは答えに詰まった。
布告が出た時か。
最初の銃声が鳴った時か。
祖父が死んだ時か。
それとも、その死をみんなが使い始めた時か。
「……たぶん」
長い沈黙のあと、リアは言った。
「始まったって、後から気づくものなんだと思う」
ミナは空を見たまま、小さく息を吐いた。
「じゃあ、もう始まってるね」
リアは否定できなかった。
国境の向こうでも、こちら側でも、同じ夜を見上げている人がいる。けれどその夜は、もう同じものではない。片方では防衛と呼ばれ、片方では侵略と呼ばれ、そのどちらの名前でも人は死ぬ。
雪はまた降り始めていた。
