第四話 名前のついた死
開戦布告は、昼前に出た。
ハイネ帝国は、テリル連合国による度重なる国境侵犯と帝国領への武力挑発に対し、帝国臣民の安全と国境秩序を守るため、限定的軍事行動へ移行すると発表した。
テリル連合国は、ハイネ帝国による越境侵犯と辺境住民への攻撃を受け、加盟州の自治と民衆の生存を守るため、共同防衛体制を発動すると宣言した。
どちらの文書にも、最初に死んだ老人の名前はなかった。
国はいつも、死者を数に直す前に、まず言葉へ変える。
言葉へ変えれば、遠くの者でも扱えるからだ。
帝都グランヘルでは、正午の鐘が鳴る少し前から、人々が広場に集まり始めていた。中央広報院の外壁には布告文が張り出され、役人がそれを読み上げる。通りすがりの市民が足を止め、商人が眉をひそめ、学生たちがざわめき、老人たちが低い声で昔の戦を語る。
セシル・ノイマンは二階の窓からその様子を見ていた。
布告文は彼が書いたものではない。最終稿は宮内府と軍務省の手で磨かれ、彼の机を離れたところで完成した。だが、そこに使われている語の骨格は見覚えのあるものばかりだった。秩序。自衛。やむを得ぬ対応。国民の結束。平和回復のための行動。
平和を回復するために戦争を始める。
その論理の歪みを、誰も歪みとして読まない。読まないように、文章は作られている。
「志願兵窓口が混んでいます」
背後で秘書官が言った。
「新聞各社も号外の第二版を準備中です」
「そう」
セシルは窓から目を離さなかった。
広場の端では、まだ幼い少年が父親の袖を引いて何か尋ねている。父親は誇らしげな顔で答え、少年はうなずいた。たぶん、帝国は正しいのか、とでも聞いたのだろう。正しいと答えるには、あまりに簡単な日だった。
「東方方面軍から戦果報告の素案も来ています」
秘書官は続けた。
「敵監視塔一基の機能停止、越境部隊の撃退、帝国軍将兵の優秀な行動」
セシルはそこで振り返った。
「機能停止?」
「はい」
「破壊ではなく?」
「表現上は、その方が妥当かと」
セシルは数秒、黙っていた。
穏当。監視塔が崩れ、その下で誰かが圧死していても、帝都では機能停止になる。言葉というのは便利だ。便利すぎて、人の形を残さない。
「負傷者数は」
「軍機です」
「死者数は」
「精査中です」
秘書官は淡々としている。悪意があるわけではない。彼はただ、この仕事に必要な形へ自分を整えているだけだ。その整い方を、セシルはもう非難できなかった。自分も同じだからだ。
机の上には、新しい紙束が届いていた。戦時広報体制への移行案、民心安定化施策、敵性情報の取り締まり指針。
戦争が始まると、まず増えるのは食料でも兵でもなく、書類だった。
国境河川沿いでは、雪が泥に変わり始めていた。
踏み荒らされた岸辺は黒く濡れ、昨夜の白さを失っている。兵たちの軍靴が血と雪と土を混ぜ、同じ色へしていく。そこではもう、何が自然の色で何が人の流したものか、区別がつかなかった。
エーリヒ・ヴァルナー少尉は、仮設指揮所の天幕で新しい命令書を受け取った。
「橋梁確保を最優先。連合側監視塔の無力化を継続。敵の反撃拠点形成を阻止せよ」
布告後の命令は、前日までよりずっと読みやすかった。建前が要らなくなったぶん、文章が短い。
「少尉」
ブルーノ軍曹が天幕の入り口から声をかけた。
「遺体確認です」
エーリヒは紙を畳み、外へ出た。
河岸の斜面に、毛布をかけられた死体が三つ並んでいた。帝国兵二、連合兵一。帝国兵のひとりは、朝に撃たれた伝令兵だった。毛布が顔までかかっていたが、端から覗く顎の若さが隠しきれていない。
「認識票は」
「確認済みです」
ブルーノが紙片を渡す。
エーリヒはそこに書かれた名前を読んだ。
オットー・レーム。
二十歳。
東方方面軍補助伝令兵。
たったそれだけだった。人が一人死ぬと、軍ではそれがたった一行になる。二十年の生活も、家族も、癖も、笑い方も、一行の下に沈む。
「家族への通知は司令部経由です」
ブルーノが言う。
「連合兵の方は」
「身分証なし。州兵の下級兵と思われます」
敵兵はさらに短い。名前すらない。
エーリヒはしばらく立ち尽くしていた。オットー・レーム。朝まで生きていて、地図の端を握っていた若者。名前を知ったところで、何も変わらない。だが知らないままより、少しだけ重い。
「少尉、次の移動があります」
ブルーノの声で、エーリヒは顔を上げた。
「……ああ」
死者の前で立ち止まれる時間は短い。軍は生きている者を先に動かす。死者はあとで整理される。整理されるからこそ、前へ進める。そういう仕組みになっている。
少し離れた場所では、工兵が新しい橋材を運んでいた。昨日焼いたはずの資材の代わりだ。失ったものの上に、すぐに次が積まれる。その速さに、エーリヒは軽い吐き気を覚えた。
ルスカ自治州臨時診療所では、リアが死者名簿を書き写していた。
負傷者の処置より、この作業の方が嫌だった。縫えば助かるかもしれない傷口と違い、名簿はもう何も変えない。ただ確定するだけだ。
「字、丁寧ね」
隣でマルタが言った。
「読めないと困るから」
「そうじゃなくて、まだ人間の字だってこと」
リアは手を止めた。
「何それ」
「慣れるとね、名前も荷札みたいに書くようになるのよ」
マルタは乾いた声で言った。
「急ぐし、多いし、どうせ家族が泣きながら読むだけだから」
その言い方は冷たく聞こえたが、実際には逆だった。冷たくしないと続けられないのだと、リアにもわかった。
名簿の中に、今朝処置した兵の名があった。グレン・ハルヴァ。二十三歳。第二監視隊。午前九時四十分死亡。
リアはその名前の横に時刻を書き足した。彼の腹の熱は、まだ手に残っている気がした。だが紙の上では、もう冷えている。
診療所の外が急に騒がしくなった。怒号、足音、誰かの泣き声。
リアが顔を上げると、戸口から州兵が二人、男を引きずるようにして入ってきた。旅装の商人だった。昨日、広場で間者扱いされていた男の一人だ。額が割れ、頬が腫れている。
「保護だ」
州兵の一人が言った。
マルタが鼻で笑う。
「その割にはずいぶん殴られてる」
「群衆が勝手にやった。こいつは帝国訛りなんだ」
「商人なら珍しくないでしょ」
「今は珍しくなくても困る」
その答えに、リアは眉をひそめた。
男は椅子に座らされ、血の混じった唾を吐いた。
「俺は商人だ……塩と布を運んでただけだ……」
「証明できるか」
「荷がある」
「帝国側と通じてないと?」
「通じていたら、こんなとこ来るかよ」
州兵は答えず、マルタに向き直った。
「手当だけしてくれ。尋問はそのあとだ」
リアは男の顔を見た。怯えと怒りと屈辱が、同じ場所に留まっている顔だった。戦争が始まると、まず疑いが増える。敵より先に、敵らしい誰かが必要になる。
「名前は」
リアが聞くと、男は少し黙ってから答えた。
「ダヴィド」
その名前を書き留めながら、リアはふと思った。名簿の中に載る名前と、まだ載っていない名前。その境目はあまりに薄い。
ミナの祖父の葬りは、その日の夕方に行われた。
村の墓地は凍っていて、土を掘るのに時間がかかった。男たちが交代で鍬を振るい、息を白くしながら無言で穴を広げていく。祈りの言葉を口にする者もいたが、風に散ってほとんど聞こえなかった。
棺は粗末だった。急ごしらえの板に、まだ新しい木の匂いが残っている。祖父の顔は見せられなかった。喉の傷がひどいから、と大人たちは言った。ミナはそれでよかったと思った。最後の顔は、もう十分見てしまった。
埋葬に来た者たちの会話は、小声でも隠しきれなかった。
「帝国は許せん」
「連合本部もようやく本気だ」
「これで村にも兵が増える」
「守ってもらわなきゃな」
祖父の死は、もう村の話ではなくなっていた。誰かの怒りを正当化し、誰かの意思を固め、誰かの恐怖をまとめるための印になっている。
ミナは棺が下ろされるのを見ていた。泣けなかった。泣くより先に、疲れていた。
隣に立つ母は、祈りの合間に何度も唇を噛んでいた。泣かないようにしているのか、何かを言わないようにしているのか、ミナにはわからなかった。
埋葬が終わる頃、州兵が一人やってきて、村長に何か耳打ちをした。村長の顔色が変わる。すぐに数人の男たちが集まり、声を潜めて話し始めた。
「どうしたの」
ミナが母に聞くと、母は少し迷ってから答えた。
「帝国側の砲撃が、もっと南でも始まったって」
「ここにも来るの」
「わからない」
またその言葉だった。わからない。誰もが使う。けれど、そのわからなさの上に、みんな勝手に次の行動を積み上げていく。
ミナは墓を見た。土の上に薄く雪が積もり始めている。祖父はようやく埋められたのに、世界の方はまるで待ってくれなかった。
夕刻、国境河川沿いの帝国陣地では、監視塔への砲撃準備が進んでいた。
大砲ではない。魔導投射機を用いた短距離破砕弾。木造と石積みを混ぜた辺境の塔なら、数発で十分だと砲兵士官は言った。
「数発で十分」
エーリヒはその言葉を反芻した。
十分なのは何に対してだろう。塔を壊すのにか。中の人間を殺すのにか。戦果報告の紙面を埋めるのにか。
「少尉、確認願います」
砲兵士官が照準図を差し出す。
エーリヒは受け取り、塔の位置、風向き、着弾予測を見た。書類としては完璧だった。完璧だからこそ、そこに人の気配がない。
「監視塔内の人数は」
「不明です」
「民間人の可能性は」
「低いかと」
「ゼロではない」
砲兵士官は少しだけ眉を動かした。
「少尉、布告は出ています」
それは答えではなかった。だが軍では、十分な答えとして扱われる。
エーリヒは沈黙ののち、照準図に署名した。
自分の名前を書く指が、紙の上では安定しているのが嫌だった。内心が揺れていても、署名だけは乱れない。乱れないから命令になる。
やがて投射機が低い唸りを上げた。
一発目は塔のやや手前に着弾し、雪と土を大きく巻き上げた。二発目で外壁の一部が崩れる。三発目は上部に当たり、黒い影がひとつ、塔の縁から落ちた。
人か、瓦礫か、遠目にはわからなかった。
周囲の兵たちは歓声を上げなかった。ただ、任務が進んだ時の短い安堵だけがあった。歓声を上げるほど、まだ戦争に酔ってはいない。酔う前に、疲れている。
エーリヒは双眼鏡を下ろした。
その瞬間、自分が何をしたのか、急に現実味を帯びて胸へ落ちてきた。署名しただけではない。あの塔にいたかもしれない誰かを、自分の名前で殺したのだ。
だがその感覚も、すぐに次の命令が上書きする。
「監視塔機能低下を確認。歩兵前進の準備を」
伝令が走る。砲兵が再装填する。工兵が橋材を運ぶ。人が死んだ直後の世界は、驚くほど止まらない。
同じ頃、ルスカ自治州臨時診療所へ、新しい担架が運び込まれた。
塔から落ちた州兵だった。脚は不自然な角度に折れ、肋骨も何本かやられている。だがまだ息はあった。
「監視塔が……」
男は血を吐きながら言った。
「上が、崩れて……ヨナスが……」
「喋らないで」
リアはそう言いながらも、彼の言葉の中に具体的な名前があることに少しだけ救われた。ヨナス。誰かがいた。誰かが落ちた。帝国の報告では「監視塔一基の機能停止」になるだろう場所に、ヨナスという名前の人間がいた。
「ヨナスは?」
男が掠れた声で聞く。
リアは答えられなかった。
担架の後ろから別の州兵が言った。
「上に残った」
その一言で十分だった。
リアは処置を続けながら、頭のどこかでその名前を反芻した。グレン。ダヴィド。ヨナス。オットー。
戦争が始まると、死は数になる。だが数になる前には、必ず名前がある。
その当たり前のことを、現場だけがしつこく知っている。
夜、帝都グランヘル。
セシルの机に、東方方面軍から速報が届いた。
「敵監視塔一基、無力化成功。帝国軍損害軽微」
紙は短かった。短い報告ほど、現場では多くを省いている。
彼はしばらくそれを見つめ、それから新しい広報文案を書き始めた。
「帝国軍は国境地帯における敵対拠点の脅威を排除し、住民保護と防衛線安定化のため着実な成果を上げている」
ペン先が紙を滑る。
敵対拠点。脅威。排除。成果。
言葉にすればするほど、そこにいた誰かの名前が消える。セシルはそれを知りながら、書く手を止めなかった。止まれば何かが変わるわけではない。むしろ別の誰かが、もっと上手に、もっと迷いなく書くだけだ。
だから自分が書いている。そう思うことで、かろうじて自分を正当化していた。
だが、その正当化もいつまでもつのか、彼にはわからなかった。
その夜更け、ミナは祖父の墓の夢を見た。
雪の中に立つ新しい土の山。そこへ次々に紙の札が刺されていく。祖父の名前の横に、知らない名前が増えていく。グレン、ヨナス、オットー、知らない子ども、知らない母親、知らない兵士。札は風に揺れ、やがて名前が薄れて、ただの線になる。
目を覚ました時、外ではまた遠くで音がした。
