第五話 やさしい国
戦争が始まって五日目、帝都では花が売れた。
広場の花屋は、いつもより赤い花を前へ並べた。兵を見送る家族が買うからだと、新聞はやさしい調子で書いた。帝国は困難に際しても気高く、臣民は節度を失わず、母は微笑み、妻は祈り、子どもは誇らしげに旗を振る。そういう光景だけを切り取れば、戦争は整って見える。
セシル・ノイマンは、その記事の校正刷りを読んでいた。
文面に誤りはない。少なくとも、書かれている範囲では。
花は実際に売れていたし、見送りの場に泣き崩れる者が少ないのも本当だった。帝都の人々は、まだ遠くの戦争を美しい姿勢で受け止めていられる距離にいる。
「見出しはこれでいきます」
秘書官が紙を差し出す。
「帝国、静かな決意」
セシルは一度その文字列を見て、机へ戻した。
「静か、ね」
「騒乱ではないという印象は重要です」
「そうだろうね」
彼は椅子にもたれた。窓の外では、軍楽隊の練習音が遠くから聞こえてくる。出征式典の準備だ。戦争は始まったばかりなのに、すでにそれを包む演出が整い始めている。
局長が部屋へ入ってきた。上機嫌だった。
「ノイマン君、明日の式典で読み上げる慰問文の草案を頼む。前線将兵の献身、帝国の誇り、平和回復への確信、このあたりを軸に」
「平和回復」
セシルは反復した。
「もうその言葉を使うんですか」
「始めた以上、終わりを先に示さねば国民は疲れる」
局長は当然のように言った。
「戦争は長引かせるにしても、長引くようには見せないことだ」
その言葉に、セシルはほんの少しだけ顔をしかめた。
長引かせるにしても。
局長は今、自分で何を言ったのか気づいていないのかもしれない。あるいは気づいていて、もう気にしていないのかもしれない。
「東方方面軍の損害報告は」
「公表分は抑える。初動で死者数を大きく出すのは得策じゃない」
「実数は」
「君が知る必要はない」
局長はそう言い残し、別の部屋へ向かった。
知る必要はない。
広報院で働くようになってから、セシルは何度もその言葉に守られてきた。知らなければ、良心は具体的に傷つかない。だが近頃は、その曖昧さ自体が傷に思えた。
机の隅には、前線から届いた写真が数枚置かれていた。公開用に選別される前のものだ。雪原を進む兵、補給馬車、遠くに見える砲煙、整列する若い志願兵。
死体の写った写真は、一枚もなかった。
やさしい国だ、とセシルは思った。
少なくとも、帝都の紙面の上では。
前線では、やさしさは物資の一覧に含まれていなかった。
エーリヒ・ヴァルナー少尉の部隊は、国境河川を越えた浅い丘陵地帯に仮陣地を築いていた。橋は完全な形ではないが渡れるようになり、補給路も最低限は繋がった。帝国軍の初動としては成功の部類に入る。そう報告書には書ける。
だが現場では、泥が深くなり始めていた。
雪解けの早い土地だった。昼には足元がぬかるみ、車輪が半分沈む。兵は疲れ、馬は鼻を鳴らし、補給箱の角には泥がこびりつく。戦争は冬の白さより、こういう茶色の方が長い。
「少尉、食料配分の件で」
ブルーノ軍曹が帳簿を持ってきた。
「本体への優先供給で、先遣には乾パンが減らされます」
「何日分」
「現状なら三日。ただし増援が来れば二日」
エーリヒは帳簿を見た。数字は整っている。整っているからこそ、欠乏の輪郭がはっきりする。
「負傷者の後送は」
「橋が細いので遅れてます。軽傷者は陣地内で寝かせるしかない」
天幕の外では、咳き込む兵の声がした。寒さと泥と疲労が重なると、傷より先に肺がやられる者が出る。戦死は戦場だけで起きるわけではない。
エーリヒは外へ出た。丘の向こうに、連合側の村がいくつか見える。煙突の煙は細く、生活の匂いだけはまだ残っていた。そこへ砲撃命令が下るのも時間の問題だろう、と彼は思った。軍は村を村とは見ない。補給点、潜伏地、観測地点、敵協力者の可能性。そういう言葉へ変えていく。
若い兵士が一人、木箱に腰かけて手紙を書いていた。昨夜、見張り中に震えていた新兵だった。紙を持つ指先が赤く割れている。
「家族へか」
エーリヒが声をかけると、兵士は慌てて立ち上がった。
「は、はい、少尉」
「続けろ」
兵士は座りなおしたが、もう書けないようだった。エーリヒは何気なく紙面を見た。そこには、こう書きかけてあった。
こちらは大丈夫です。
帝国軍は優勢で、じきに帰れます。
その続きは空白だった。
「名前は」
「フリッツです」
「年はいくつだ」
「十八です」
まだ少年だ、とエーリヒは思った。だが帝国は十八を少年とは扱わない。銃を持てる年齢は、死ねる年齢でもある。
「嘘を書くのは苦手か」
思わずそう言うと、フリッツは困ったように笑った。
「母が心配するので……でも、何を書けばいいのか」
エーリヒは少しだけ考えた。
「寒いが元気だ、と書け」
「それだけでいいんですか」
「それ以上は、たいてい余計だ」
フリッツは頷き、ぎこちなく続きを書き始めた。エーリヒはその場を離れながら、自分が今教えたのは優しさなのか、ただの隠蔽なのか、判別できなかった。
ルスカ自治州臨時診療所では、包帯より先に寝台が足りなくなっていた。
リアは床に敷いた毛布の上で、熱を出した少年兵の額を拭いていた。銃創ではない。悪寒と咳、浅い呼吸。肺炎の初期か、泥と悪寒でこじらせた風邪か。戦場では、こういう病名もまた戦争の一部になる。
「水」
少年がかすれた声で言う。
リアは少しだけ唇を湿らせた。飲ませすぎると咳き込む。加減を間違えるだけで、助かるものも助からない。
「家はどこ」
なんとなく聞くと、少年は目を閉じたまま答えた。
「西の……ノルヴァ村」
「遠いね」
「母さんが…….牛を飼ってて……」
そこまで言って、また咳き込む。
リアは背を支えながら、名前を聞くのを少し躊躇った。名前を知ると、死んだ時に残る。知らなくても残るが、形が違う。
「あなたの名前は」
「イェン」
短い返答だった。まだ声変わりの途中みたいな、細い声だった。
リアは頷き、布を替えた。
イェン。
また一つ、名前が増える。
診療所の奥では、ダヴィドという商人の尋問が続いていた。州兵が何度も同じことを聞いている。どこから来た、誰と取引した、帝国側の兵站を見たか、訛りの理由は。
男は最初こそ抗弁していたが、もう疲れきって、質問に答えるだけの機械みたいになっていた。
マルタが小声で言った。
「そのうち間者になるわね」
「何それ」
「証拠が出るんじゃなくて、そういう役になるってこと」
リアは顔をしかめた。
「やってないかもしれないのに」
「こんな時に、やってないかどうかはあまり大事じゃないのよ」
マルタの目の下には、濃い隈ができていた。疲労で冷たくなっているのではない。冷たくならないと、見ていられないのだ。
診療所の外では、負傷兵の家族が列を作っていた。誰が生きているのか、誰が死んだのか、いつ会えるのか。
リアはその列を見るたび、診療所が治療の場というより、宣告の場へ近づいている気がした。
ミナの村には、帝国より先に連合の兵が増えた。
防衛強化のため、と州兵は説明した。実際には、村は国境に近すぎた。守るためでもあり、見張るためでもある。住民の中に帝国へ通じる者がいないか、逃げる者がいないか、噂が広がりすぎないか。戦争が始まると、味方の兵も壁になる。
集会所の隅に座っていたミナは、新しく来た兵たちの顔を見ていた。若い者、髭の濃い者、疲れている者、妙に陽気な者。誰もが銃を持ち、誰もが自分たちは守る側だという顔をしている。
その中の一人が、配給のパンを子どもたちに配った。やさしい顔の兵だった。頬にそばかすがあり、笑うと少し目尻が下がる。
「ほら、食べな」
ミナにも一つ差し出す。
「ありがとう」
「怖いか」
兵が聞く。
ミナは少し考えてから答えた。
「うるさい」
兵は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「正直だな」
「夜、音がするから」
「すぐ慣れる」
その言い方は慰めのつもりだったのだろう。だがミナには、慣れたくないことを慣れろと言われたように聞こえた。
「慣れたら、平気になるの」
そう聞くと、兵は笑みを少しだけ消した。
「平気にはならない。でも、動けるようにはなる」
それはたぶん本当だった。
ミナはパンを受け取り、ちぎって口に入れた。硬くて、少し酸っぱかった。
兵は他の子どもの方へ行った。
やさしい人だ、とミナは思った。
やさしい人でも、銃を持ってここにいる。
やさしいことと、人を殺す側にいることは、たぶん両立する。
そのことが、彼女には少し気持ち悪かった。
午後、前線の帝国陣地に、捕虜が一人連れてこられた。
連合側の下級兵。脚に破片傷を負い、泥まみれのまま縛られている。年齢は二十代半ばほど、眼光だけが妙に強い。
「斥候線近くで確保しました」
兵が報告する。
「武装あり、身分証あり」
エーリヒは捕虜の前に立った。
連合兵は唾を飲み込み、こちらを睨んだまま黙っている。
「名前は」
通訳を介して尋ねると、男はしばらく無言だったが、やがて答えた。
「サロ」
「所属は」
「ルスカ州防衛隊」
「任務は」
「お前たちを止めることだ」
通訳がそのまま訳し、周囲の帝国兵が鼻で笑った。
エーリヒは笑わなかった。
その答えは、あまりに正直で、あまりにこちらと同じだったからだ。
「治療は受けさせる」
エーリヒが言うと、捕虜は意外そうな顔をした。
「尋問のためだ」
ブルーノが付け足す。
捕虜は目を伏せた。期待したわけではないのだろう。ただ、扱いがまだ殴打ではないことに驚いただけだ。
エーリヒはその傷口を見た。深いが致命傷ではない。適切に縫えば助かる。
助けて、また敵として返るかもしれない。
だが今ここで死なせれば、それは単なる処分になる。
「後送だ」
そう命じると、ブルーノが低く言った。
「少尉、余裕はありません」
「知っている」
「味方の負傷兵も詰まっています」
「知っている」
エーリヒは短く答えた。
「それでもだ」
ブルーノは数秒、彼を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「了解」
捕虜のサロは、そのやり取りを理解できなかっただろう。
だがエーリヒにはわかった。
これは人道ではない。
自分がまだ完全には壊れていないと確認するための、ほとんど私的な判断だった。
その夜、帝都では式典の予行が行われた。
軍楽隊、旗、整列する志願兵、演壇、拍手の練習。
セシルは慰問文の最終稿を持って立ち会っていた。読み上げられる文は端正で、温かく、そして空虚だった。
「前線の勇士たちは、帝国の静かな良心である」
自分の書いた一文を、別の男が朗々と読み上げる。
静かな良心。
その言葉を聞いた瞬間、セシルの脳裏に浮かんだのは、広場の花でも旗でもなく、公開されていない写真の雪原だった。
良心は、こんなにも整列できるものだろうか。
予行が終わり、人が散っていく。
広場の石畳に夜気が降りる。
セシルは一人で演壇の近くに残り、紙を見下ろした。
帝国はやさしい顔をしている。
少なくとも、自分でそう信じている。
だがやさしい顔のまま戦争を続ける国ほど、長く壊れるのではないかと、彼は思った。残酷な国は残酷だと見えるぶんだけ、まだ誤魔化しが少ない。やさしい国は、やさしさの姿勢のまま人を削る。
同じ夜、診療所ではイェンの熱が上がっていた。
リアは何度も水を替え、呼吸を確かめた。少年はうわごとのように母のことを呼び、牛小屋の扉を閉めろと言い続けている。村の匂いのする言葉だった。
戦場に来てからも、人は最後まで家の続きを見ているのかもしれない。
「助かると思う?」
リアが聞くと、マルタは少し黙ってから答えた。
「今夜を越えれば半分」
「越えなければ」
「半分じゃない方」
リアは頷いた。
確率にすると、少しだけ冷静でいられる。
冷静でいられるから、次の布を絞れる。
奥ではダヴィドが壁にもたれて眠っていた。尋問は一旦打ち切られたらしい。眠っているというより、落ちているような眠り方だった。
ミナの村では、やさしい顔の兵が子どもにパンを配っていた頃だろう。
前線では、捕虜のサロが縫われている頃かもしれない。
帝都では、静かな良心が読み上げられている。
同じ戦争の中に、こんなにも違うやさしさがある。
そしてそのどれもが、少しずつ何かを壊している。
深夜、ミナはまた目を覚ました。
集会所の外で、兵たちが低い声で話している。
南の村が焼けたらしい。
帝国軍が進んでいるらしい。
いや、連合側が先に退いたらしい。
噂は夜になると形を変える。
ミナは毛布の中で目を開けたまま、昼にパンをくれた兵の顔を思い出していた。やさしかった。たぶん嘘ではない。
でも、その兵が明日誰かを撃つかもしれない。
撃たれて死ぬかもしれない。
やさしいまま死ぬ人もいるのだろうか、と彼女は思った。
