第六話 燃える村
六日目の朝、風向きが変わった。
国境地帯では、風向きは天気以上に重要だった。煙がどちらへ流れるか、火がどこまで移るか、砲の音がどの谷へ響くか。それだけでも人の動きは変わる。逃げる方向も、隠れる場所も、報告書の文面さえも。
その朝、風は西から東へ吹いていた。
ルスカ自治州南部の小村ベルナで最初に火が上がったのは、まだ日が高くなる前だった。
帝国軍前進部隊は、夜明け前から村の外縁に展開していた。
ベルナは軍事拠点ではない。石造りの礼拝堂、小さな穀物倉、家畜小屋、三十戸ほどの家屋。地図の上では目立たない点だ。
だが連合側の伝令が出入りしている可能性があり、監視塔への補給経路の一つでもあると報告されていた。
報告されていた。
その曖昧な受動態が、村を焼くには十分だった。
エーリヒ・ヴァルナー少尉は丘の斜面から村を見下ろしていた。朝靄の向こうに、低い屋根が並んでいる。煙突から細い煙が上がり、犬が一匹、道を横切った。どう見ても普通の村だった。
「斥候報告では、昨夜遅くに武装した男二名が出入りしています」
隣の士官が言う。
「連合の伝令か」
「断定はできません」
「できないのに、包囲したのか」
「命令です」
その答えに、エーリヒは口を閉ざした。
命令。
それは便利な言葉だ。疑問を止め、責任を上へ押し戻す。だが現場で村を見ているのは、命令書ではなく人間の目だった。
ブルーノ軍曹が近づいてくる。
「少尉、住民退去勧告を出しますか」
エーリヒはすぐには答えなかった。
退去勧告を出せば、連合側の兵や伝令も逃げるかもしれない。出さなければ、村人ごと巻き込む可能性が高い。
「……拡声器を使え。十分だけ与える」
そう言うと、隣の士官が眉をひそめた。
「短すぎます」
「長ければ敵も散る」
「住民も散ります」
「住民は散っていい」
口にしてから、自分の声が妙に硬いことに気づいた。
住民は散っていい。
助けたいのか、効率を優先したいのか、自分でも判別しづらい言い方だった。
やがて帝国語と連合共通語で退去勧告が読み上げられた。
村にざわめきが走る。戸口から顔を出す女、子どもを抱えて走る男、家畜を引こうとして縄をもつれさせる老人。
武装した者の姿は、まだ見えない。
「砲兵、待機」
エーリヒは命じた。
十分は短い。短すぎる。
それでも軍は、十分与えたと言える。
その差が、後で報告書になる。
ベルナ村に連れてこられた避難民の一団の中に、ミナと母親がいた。
南の村が危ないという噂を受け、州兵が住民の一部を北へ移送していたのだ。だが道が混み、馬車が足りず、結局ベルナの集会所で一時待機になっていた。
安全な場所へ向かっているはずなのに、途中の村で足止めされる。戦争が始まってから、そういう矛盾は珍しくなくなった。
ミナは集会所の窓から外を見ていた。
見慣れない村。見慣れない顔。だが怯え方だけはどこも同じだった。
外で誰かが叫んだ。
「帝国軍だ」
その瞬間、集会所の空気が変わった。
大人たちが一斉に立ち上がる。子どもが泣く。誰かが荷物を探し、誰かが祈り、誰かが窓を閉めようとする。
州兵が飛び込んできた。
「落ち着け、退去命令だ。北門から出ろ」
「砲撃されるのか」
「まだわからん」
「まだって何だ」
怒号が飛ぶ。
州兵の顔にも余裕はなかった。守る側の顔というより、自分も逃げたい者の顔だった。
母がミナの手を掴む。
「いくよ」
二人は人の流れに押されるように外へ出た。
村の道はすでに混乱していた。荷車がひっくり返り、籠の中の鶏が飛び散り、泣き叫ぶ子どもを母親が引きずるように抱えている。
ミナはその中で、ふとパンを配っていたあのやさしい兵の顔を探した。いない。ここにいるのは別の兵たちだ。疲れ、怒鳴り、銃を構え、住民を急かしている。
遠くの丘から、拡声器の声が聞こえた。意味ははっきりしない。ただ、「退去」と「直ちに」という語だけが耳に残る。
「急げ」
母に引かれて走りながら、ミナは思った。
やさしい顔をした兵がいなくても、戦争は十分に進む。
むしろ、いない方が早いのかもしれない。
ルスカ自治州臨時診療所では、朝から南部方面の負傷者受け入れ準備が始まっていた。
リアは包帯束を抱え、空いた寝台を無理やり二つ作った。空いたというより、昨夜死んだ者の場所だ。毛布を替え、血の染みた藁を捨て、次の人間を置けるようにする。
戦場の医療は、救うことより回転に近い時がある。
「南で何が起きてるの」
リアが尋ねると、マルタは器具を煮沸しながら答えた。
「村の包囲」
「どっちが」
「帝国」
「確かなの」
「確かじゃなくても、すぐに確かになる」
リアはその言い方に嫌なものを感じた。
事実が起きる前に、事実として扱う。
この数日で、そういう場面を見すぎていた。
奥では、ダヴィドという商人がまだ拘束されたままだった。結局、間者の証拠は出ていない。だが放す理由もまた誰も作らない。
疑われた人間は、無実であることを証明しても元には戻らない。
戦争はまず、そういう曖昧な檻を増やす。
そこへ、伝令が駆け込んできた。
「南部ベルナ村、火災発生。負傷者多数、避難民流入見込み」
リアの手が止まる。
「火災?」
「砲撃か放火かは不明」
不明。
またその言葉だ。
だが不明でも、焼けた人間は運ばれてくる。
帝都グランヘルでは、ベルナ村の名はまだ誰も知らなかった。
セシル・ノイマンの机に届いたのは、東方方面軍の簡潔な速報だけだ。
「敵補給協力地域に対する制圧行動を実施。敵側抵抗を受け、局地的火災発生」
局地的火災。
村が燃えても、その語で足りる。
セシルは紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
敵補給協力地域。
そう書かれた瞬間、そこにいた住民の暮らしは消える。井戸も、礼拝堂も、朝のパンの匂いも、ただの「協力地域」になる。
局長が入ってきた。
「その件、夕方の発表に入れる」
「火災もですか」
「敵の混乱に伴うものとして処理する」
「こちらの砲撃は」
「確認中だ」
確認中。
セシルはその言葉を何度も聞いてきた。確認される頃には、すでに公表文が先に出ている。
「住民被害が出ていたら」
「連合側が民間地域を軍事利用した責任だ」
局長は即答した。
早すぎる答えだった。
つまり、もう最初からその形で書くつもりなのだ。
セシルは机上の紙束を見た。
彼が書く文は、いつも少し遅れて死体へ追いつく。
追いついた時には、死体の方がもう言葉を失っている。
ベルナ村では、十分が終わる前に最初の銃声が鳴った。
誰が撃ったのか、エーリヒには見えなかった。
村の外れの納屋の陰で閃光が走り、帝国兵の一人が倒れる。連合側州兵か、武装住民か、ただの誤射か。判別するには距離がありすぎた。
「反撃」
隣の士官が叫ぶ。
「待て」
エーリヒも叫んだが、遅かった。
前列の兵が一斉に発砲し、納屋の壁が砕ける。乾いた木片が飛び、家畜の悲鳴が上がった。
「砲兵、第一射」
命令が飛ぶ。
エーリヒは止めようとして、止められなかった。最初の一発が村の中央通り近くへ落ち、土と石と木片を吹き上げる。
二発目で屋根に火が移る。
風は西から東へ吹いていた。
「消火できません」
兵が叫ぶ。
できるわけがない。
砲撃と退去と混乱が同時に起きている村で、誰が火を消す。
火は乾いた梁を舐め、藁屋根を渡り、隣家へ飛ぶ。
村はあっという間に「局地的火災」では済まない色になった。
エーリヒは双眼鏡を上げた。
燃える家の前で、女が何かを抱えて立ち尽くしている。子どもか、荷物か、遠くてわからない。
州兵らしき影が住民を押して走らせている。
納屋の陰からは、もう発砲がない。最初の一発だけだったのかもしれない。
「前進しますか」
ブルーノが聞く。
その声は平静だった。平静であることが、逆に現実味を増した。
「……負傷者を拾え。住民もだ」
「戦闘中です」
「聞こえた通りだ」
ブルーノは一瞬だけエーリヒを見た。
反論はしなかった。
ただ、これは後で面倒になる、とでも言いたげな目だった。
帝国兵が燃える村へ走り込む。
敵を掃討するためか、住民を救うためか、その両方か。
現場ではもう区別が曖昧だった。
ミナは北門へ向かう途中で、母とはぐれた。
押し合う人波の中で手が離れたのは、一瞬だった。
振り返った時には、もう見えない。
叫んでも声は飲まれる。砲声と泣き声と怒号で、村全体が耳鳴りみたいな音になっていた。
「母さん」
叫びながら走る。
熱い。
火が近いのではなく、空気そのものが熱い。
通りの向こうで家が燃え、窓から黒い煙が噴いている。誰かが桶を持って走るが、途中で投げ出した。無意味だとわかったのだろう。
ミナは角を曲がったところで転んだ。膝を打ち、手のひらに砂利が刺さる。
立ち上がろうとした時、誰かに腕を掴まれた。
「そっちはだめだ」
州兵だった。若い男。顔に煤がついている。
「母さんが」
「北へ行け」
「母さんがいるの」
「今は無理だ」
男はそう言って、ミナを半ば引きずるように路地へ押し込んだ。
その背後で、屋根が崩れる音がした。
ミナは耳を塞ぎたくなった。だが塞いでも音は消えない。音は身体の中まで入ってくる。
路地の先で、見知らぬ老婆が泣きながら座り込んでいた。足を痛めたのか動けない。
州兵は一瞬迷い、それからミナに言った。
「ここにいろ」
そう言って老婆の方へ向かった。
やさしい人かもしれない、とミナは思った。
次の瞬間、その男の背中が跳ねた。
銃声は遅れて聞こえた。
男は前のめりに倒れ、動かなかった。
ミナは声も出なかった。
どこから撃たれたのか見えない。帝国軍か、味方の誤射か、屋根の上か、通りの向こうか。
わからない。
またその言葉だった。
だが、倒れた背中だけははっきり見えた。
ベルナからの最初の搬送が診療所へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
火傷、打撲、骨折、吸煙、銃創。
リアは担架を受け取るたび、何が原因かを分類しようとして、すぐに諦めた。
火で焼かれたのか、崩れた壁に潰されたのか、逃げる途中で撃たれたのか。
原因を分けても、処置は変わらないことが多い。
「こっちは呼吸が浅い」
「水じゃなくて布を」
「子どもを先に」
「先になんてできない、脈がない」
診療所はすぐに悲鳴と咳で満ちた。
リアは小さな女の子の髪から灰を払い、顔の煤を拭いた。まつ毛まで黒くなっている。目だけが白く見開かれていた。
「お母さんは?」
聞くと、子どもは答えず、ただ咳き込んだ。
答えられないのか、わからないのか、その両方か。
次に運ばれてきたのは、腹を撃たれた州兵だった。
若い。顔に煤。
ミナを路地に押し込んだあの兵とは別人かどうか、リアには知る由もない。だが似た顔はいくらでもある。若く、疲れ、守る側の顔をして、すぐ死ぬ。
「名前は」
リアが聞くと、兵は苦しげに口を動かした。
「セル……」
そこまでで血を吐いた。
フルネームは聞けなかった。
リアは傷口を押さえながら、名前が途中で切れることに妙な恐ろしさを覚えた。
人間が死ぬ時、人生だけでなく名前まで途中で終わることがある。
夕方、帝都ではベルナ村の件が発表された。
「敵武装勢力の潜伏が確認された地域において、帝国軍は必要な制圧行動を実施。敵側の無秩序な抵抗により局地的火災が発生したが、帝国軍は住民保護にも努めている」
セシルはその文案を読み上げる役割を果たした。
声は安定していた。
安定していることが、自分でも嫌だった。
読み上げながら、彼は一つだけ気づいていた。
この文章は、おそらく完全な嘘ではない。
帝国軍は実際に住民保護もしただろう。燃える中で誰かを運び出した兵もいたはずだ。
だから厄介なのだ。
少し本当が混じっている文章は、丸ごとの嘘より強い。
発表後、記者の一人が質問した。
「民間人の死傷者数は」
局長が即座に答える。
「確認中です」
またその言葉だった。
確認中。
死者の数はまだ数えられていない。
だが言い訳の形だけは、すでに数え終わっている。
夜、ベルナ村の火はようやく弱まった。
村の半分が焼け、礼拝堂の屋根は落ち、井戸には灰が浮いていた。
エーリヒは焼け跡を歩き、崩れた壁のそばで立ち止まった。
そこに、小さな靴が片方だけ落ちていた。子どものものだ。
彼は拾わなかった。
拾えば何かが重くなりすぎる気がした。
拾わなくても十分重いのに。
「住民の生存者は北へ逃げたか、連合側に回収された模様です」
ブルーノが報告する。
「武装勢力は」
「数名確認、数名射殺、取り逃がしあり」
「民間人被害は」
「不明です」
エーリヒは乾いた笑いを漏らしそうになった。
ここでも不明。
焼け跡の中で、まだ不明でいられるのか。
「報告書には何と書く」
そう聞くと、ブルーノは少しだけ考えた。
「敵抵抗に伴う火災拡大。住民退去勧告は実施済み。帝国軍は可能な範囲で救助」
「事実か」
「事実の並べ方です」
エーリヒは何も言えなかった。
それはセシルが帝都でやっていることと同じだった。
リアが診療所で見ているものとは違う。
ミナが失ったものとも違う。
同じ戦争の中で、事実は場所ごとに別の形になる。
その夜、ミナは診療所の隅で母と再会した。
母は腕に火傷を負っていたが、生きていた。
二人は抱き合った。泣き声は出なかった。ただ、身体が震えて止まらなかった。
リアが包帯を巻きながら、ミナの顔を見る。煤と涙の跡で汚れている。
だが目だけは、前よりも静かだった。
静かというよりは、何かが一段深く沈んだ目だった。
「村は」
ミナが聞く。
リアは少し迷ったが、嘘はつかなかった。
「燃えた」
ミナは頷いた。
知っていた、という顔だった。
見た者にとって、確認はもう痛みの追加でしかない。
「兵が……助けようとして……」
ミナはそこで言葉を切った。
路地で撃たれた男の背中が、まだ目に焼きついているのだろう。
リアは何も聞かなかった。
聞けば、また証言になる。
この子にはもうそれ以上、何かを材料にされてほしくなかった。
