第八話 家に帰る道
戦争が始まってから、人はよく「帰る」という言葉を使うようになった。
前線の兵は、じきに帰れると言う。
避難民は、落ち着いたら帰れると囁く。
帝都の新聞は、平和を取り戻し、日常へ帰る日が来ると書く。
だが実際には、戦争が始まると真っ先に壊れるのが帰る道だった。
帝国軍前線では、南方道路の確保作戦が始まっていた。
ベルナ村の焼け跡を越えた先にある細い街道は、連合側の補給と避難の両方に使われている。そこを押さえれば、軍事的には有利になる。
軍事的には。
その言い方を、エーリヒ・ヴァルナー少尉は最近ますます嫌うようになっていた。
街道沿いには、放棄された荷車が何台も残っていた。毛布、壊れた箱、子どもの靴、穀物袋、鍋、引きちぎれた手綱。
逃げた者たちが途中で捨てた暮らしの破片だった。
「住民の流れは北へ向かっています」
ブルーノ軍曹が報告する。
「連合側は退避路を維持しながら、後方で再編中」
「つまり、民間人と兵が同じ道を使っている」
「はい」
エーリヒは道の先を見た。
そこを砲撃すれば、連合側の移動は乱れる。
だが避難民も巻き込む。
巻き込む、という言い方も曖昧だ。実際には、巻き込むのではなく、撃つのだ。
「砲兵は待機」
「司令部は道路遮断を急いでいます」
「見ればわかる」
ブルーノはそれ以上言わなかった。
少尉が何を迷っているか、もう十分わかっているのだろう。
道端に、一台の荷車が横転していた。
その下から、女の手が見えている。
すでに硬直していた。
誰も近づかない。近づけば確認しなければならず、確認すれば報告しなければならない。前進中の軍は、死者の発見すら順番をつける。
エーリヒは馬を降りた。
荷車の脇にしゃがみ、毛布を少し持ち上げる。女は若くはなかった。胸に、布でくるんだ何かを抱いている。赤子かと思ったが、違った。家の鍵束だった。
彼は一瞬、息を止めた。
家の鍵。
帰るつもりだったのだ。
「少尉」
ブルーノの声が背後から飛ぶ。
「先へ進まねば」
エーリヒは毛布を戻し、立ち上がった。
鍵束の音が、やけに小さく鳴った。
ルスカ自治州では、避難路が日に日に長くなっていた。
ベルナ村から逃げた者たちはさらに北へ送られ、別の村から来た者たちと混ざり合う。集会所、礼拝堂、倉庫、学校、空いている建物なら何でも寝床になる。
人が増えるほど、故郷の輪郭は薄くなる。
どこから来た誰か、という言い方が増える。
ミナと母も、診療所の隣接施設から別の避難所へ移されることになった。
リアが見送りに出る。
「腕は無理しないで」
リアが母に言うと、母は弱く笑った。
「無理しないで済む状況ならいいんだけどね」
その返しに、リアは笑えなかった。
ミナは小さな荷物袋を抱えて立っていた。
中身は着替えと、祖父の古い懐中時計だけだ。焼ける前の家から持ち出せたものではない。祖父が死んだ日のあと、母がずっと持っていたものを渡されたのだ。
「それ、大事なもの?」
リアが聞くと、ミナは少しだけ考えた。
「わからない。でも、ないと変な感じ」
リアは頷いた。
そういうものはある。
価値があるから持つのではなく、失うと自分の輪郭まで薄くなる気がするもの。
「新しい避難所、遠いの」
「半日くらい」
母が答える。
「でも、もっと北はいっぱいで」
「戻れるのかな」
ミナの問いに、母はすぐには答えなかった。
「家に?」
リアがやわらかく言い換えると、ミナは頷いた。
母は視線を落とした。
「……今は、考えないようにしてる」
それは否定よりつらい返事だった。
帰れないと断言するより、考えないことでしか保てない希望のほうが、ずっと脆い。
ミナは何も言わず、懐中時計を握った。
帝都グランヘルでは、「帰還」のイメージが盛んに使われていた。
中央広報院の壁には新しい標語案が貼られている。
勝利ののち、平穏へ帰る。
帝国の秩序を、国境へ取り戻す。
家族のもとへ帰るために、今は耐えよ。
セシル・ノイマンはその紙を見上げ、どれも嫌だと思った。
帰る、という言葉があまりに無傷すぎる。
まるで道が残っていることを前提にしている。
「この標語、評判がいいんです」
秘書官が言う。
「市民は『帰る』という言葉に安心しますから」
「そうだろうね」
セシルは短く返した。
安心。
帝都にいる者にとっては、戦争はまだ帰路のある出来事なのだ。
前線も、避難民も、焼けた村も、紙面の向こう側にある。
だから「帰る」が機能する。
机の上には、前線兵士の家族向け慰問冊子の草案があった。
その中には、兵士からの模範手紙文例まで載っている。
「こちらは元気です」
「任務は順調です」
「帝国のため、家族のため、誇りを持って務めています」
「また笑って会える日を信じています」
整いすぎている。
まるで感情まで配給品だ。
セシルは文例を見つめながら、ふと自分の家のことを思い出した。
帝都の西区にある、古い石造りの家。父は法務官で、母は静かな人だった。食卓では政治の話をあまりしない家だったが、しないこと自体が一つの立場だった。余計なことを言わない。国家を疑わない。秩序を信じる。
彼はその家を嫌って育ったわけではない。
むしろ、整いすぎていて、息が詰まった。
戦争が始まってから母から届いた手紙には、こう書いてあった。
体に気を付けて。あなたは言葉の仕事なのだから、危ないことはないのでしょう。
その一文が、妙に刺さった。
危ないことはない。
本当にそうだろうか。
砲弾は飛んでこない。血も浴びない。だが、自分の書く文が誰かの帰る道を潰しているなら、それは安全と言えるのか。
前線では、捕虜のサロが後送前に一時的にエーリヒの陣地へ戻されていた。
橋の混雑で移送が遅れているのだ。
脚の傷は塞がり始めていたが、まだ歩けない。
彼は天幕の隅で毛布にくるまり、帝国兵の会話を無表情に聞いていた。
エーリヒは水筒を持って近づいた。
「飲めるか」
通訳を介すと、サロは少しだけ驚いた顔をしたが受け取った。
「お前は変だな」
彼は言った。
「帝国の士官はみんなこうなのか」
「違うだろう」
エーリヒは答えた。
「連合の兵はみんな英雄か?」
サロは鼻で笑った。
「違う。腹が減るし、逃げたいし、上官は馬鹿だ」
「同じだな」
「同じじゃない」
サロの声が少し硬くなる。
「お前たちは来た側だ」
エーリヒは返せなかった。
その通りだった。
帝国側がどれだけ防衛と呼んでも、サロにとっては、自分たちは来た側だ。
「家族は」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でもわからなかった。
サロはしばらく黙ってから答えた。
「妹がいる。母も。家は川の向こうだ」
「無事だといいな」
「お前が言うな」
鋭く返され、エーリヒは口を閉ざした。
正しい拒絶だった。
だがそのあと、サロは少しだけ視線を落とし、小さく付け加えた。
「…….でも、そうだな。無事だといい」
その瞬間だけ、敵味方ではなく、帰る場所を待つ者同士の顔になった。
だからこそ、余計に救いがなかった。
避難所へ向かう道で、ミナは何度も後ろを振り返った。
もうベルナ村は見えない。
元いた村も見えない。
見えるのは同じような荷車、同じような疲れた人々、同じように泣く子ども、同じように黙る大人ばかりだ。
「後ろに何かあるの」
母が聞く。
「わからない」
ミナは答えた。
「でも、見ないと、なくなりそうだから」
母は何も言わなかった。
その代わり、火傷していない方の手でミナの肩を抱いた。
優しい動作だった。けれど、その腕も震えている。
道端では、別の避難民の老人が座り込んでいた。足が悪いらしく、家族が荷車を止めて困っている。
通りかかった連合兵が手を貸し、老人を荷台へ上げた。
その兵は若く、疲れた顔をしていたが、動作は丁寧だった。
ミナはその光景を見て、またあの気持ち悪さを思い出した。
やさしい人が、戦争の中で普通に働いている。
やさしいから止まるのではなく、やさしいまま運ぶ。やさしいまま撃つ。やさしいまま命令に従う。
世界は、悪い人だけで壊れるわけではない。
診療所では、リアが使い終えた包帯をまとめながら、自分の家のことを思い出していた。
家といっても、もう戻る場所ではない。
州都近くの小さな町で、父は靴職人だった。母は早くに死に、弟は徴用で別の地方へ送られた。父は病で亡くなり、家は借金の整理で手放した。だから彼女にとって、帰る場所はすでに過去形だった。
それでも時々、革の匂いを思い出す。
父が木型を叩く音。
窓辺に置かれた細い針山。
夕方の薄暗い作業場。
あの家はもうない。だが記憶の中では、まだ帰れる形をしている。
「どうしたの」
マルタが聞く。
「少し、昔のこと」
「帰りたい?」
リアは少し笑った。
「帰る場所がないのに?」
「ない場所ほど帰りたくなることもある」
マルタはそう言って、薬瓶の蓋を閉めた。
その声音に、彼女にも失った場所があるのだとわかる。
けれど互いに詳しくは聞かない。
この戦争では、過去を話すことは時々、傷口を開くのと同じだ。
夜、帝都でセシルは父からの短い書簡を読んでいた。
「国家が不安定な時こそ、君のような冷静な人間が必要だ。感情に流されず、正しい秩序の維持に努めなさい」
父らしい文だった。
整っていて、非の打ちどころがなく、温度が低い。
愛情がないわけではない。
ただ、愛情まで秩序の形式で届く。
セシルは書簡を畳み、机に置いた。
自分はあの家に帰れるだろうか、とふと思う。
物理的には帰れる。家は焼けていない。道も閉ざされていない。
だが、今の自分があの食卓に座り、父の言う秩序に頷ける気がしなかった。
帰る道が壊れるというのは、何も橋が落ちることだけではない。
同じ家に戻っても、もう以前の自分ではいられない。
その意味で、戦争は前線にいない人間の帰路まで少しずつ削る。
前線の夜は冷えた。
エーリヒは天幕の外で、遠くの街道を見ていた。
日中に見た鍵束の女が頭から離れない。
家の鍵を持って逃げる。
帰るつもりでいる。
その意志だけが、戦争の中でひどく弱く、ひどくまっすぐに見えた。
ブルーノが隣に立つ。
「眠れませんか」
「少しな」
「みんな同じです」
軍曹は煙草に火をつけた。
「少尉は、帰ったら何をするつもりです」
不意の問いだった。
エーリヒは少し考える。
「わからない」
「士官学校へ戻る?」
「戻っても、同じには見えないだろうな」
ブルーノは煙を吐いた。
「俺は酒場です」
「ずいぶん具体的だな」
「具体的じゃないと、帰る気がしない」
その言葉に、エーリヒは少しだけ救われるような、余計に苦しくなるような気持ちになった。
帰る先を具体的に言える者と、もう言えない者がいる。
その差もまた、戦争の中で広がっていく。
