火は雪の下で燃える-第九話-

第九話 やさしい顔で

ベルナ村の焼失から三日後、報復という言葉がようやく公然と使われ始めた。

それまでも怒りはあった。
死者は十分いたし、焼けた家も、行方不明者も、負傷兵も増え続けていた。
だが国家は、怒りをそのままでは使わない。
怒りは整えられて初めて動員になる。

テリル連合国は、ベルナ村の「殉難」報いるための総力抗戦を呼びかけた。
ハイネ帝国は、連合側の「卑劣な宣伝と非正規戦」に対抗するため、辺境の安定化作戦強化を宣言した。

どちらも、報復とは言わずに報復を始める言い方だった。


帝都グランヘルでは、新しい慰問絵葉書が印刷されていた。

笑顔の看護婦、花束を持つ子ども、整列する志願兵、夕陽の中の帝国旗。
どの絵もやさしかった。
やさしいからこそ、セシル・ノイマンには気味が悪かった。

「前線の士気向上に有効です」

印刷局の担当官が言う。

「市民も参加しやすい。短い祈りの言葉を書いて送れるようにしました」

見本には、すでに文例が添えられている。

「帝国の勇士へ、誇りをもってお務めください」
「あなたがたの献身が、私たちの平和を守っています」
「どうか無事に帰ってきてください」

整っている。
誰も傷つけない言葉ばかりだ。
だがその無害さが、逆に恐ろしいとセシルは思った。
人は残酷な命令だけで戦争を支えるのではない。こういうやさしい文句でも十分支える。

「連合側の宣伝写真に対抗して、こちらも住民救助の事例を前面に出します」

秘書官が新しい資料を差し出した。

「ベルナ村で子どもを抱えて避難させた兵の件、身元が確認できました」

「名前は」

「フランツ・エッガー上等兵」

ようやく名前がついた。
だがその名前も、本人のものというより、帝国の善意を証明する札のように見えた。

「本人の証言は」

「簡潔です。住民に被害を出したくなかった、できる限り救助した、と」

セシルは資料を閉じた。
おそらく本心だろう。
だからこそ使いやすい。
善意は、悪意より宣伝に向く。読んだ者が安心できるからだ。

「これを記事に?」

「はい。見出し案は『帝国兵、炎の中で幼子を救出』です」

セシルは何も言わなかった。
その記事が間違っているとは言い切れない。
だが、ベルナ村全体の何を覆うために使われるのかは、あまりにはっきりしていた。


連合側避難所では、報復の空気はもっと直接的だった。

ミナと母が移された北方の避難所は、もともと学校だった建物を使っている。教室の床に藁が敷かれ、黒板には避難者名簿と配給予定が書かれていた。
窓ガラスの一部は割れ、布で塞がれている。
子どもたちは静かだった。静かすぎた。

昼過ぎ、連合側の演説隊が来た。
州議会の議員と、徴募担当の将校、それに広報係。
彼らは講堂に避難民を集め、ベルナ村の惨状と帝国の残虐を語った。

「我々は忘れてはなりません」

議員が言う。

「焼かれた家々を、殺された家族を、奪われた日常を。彼らに報いるためにも、我々は立たねばならない」

拍手はまばらだった。
疲れた避難民は、怒るにも体力がいる。
だが、講堂の後ろにいた若い男たちの顔は変わっていった。
自分の村が次かもしれない。
何もしなければ、守れないかもしれない。
そう思わせるには十分な演説だった。

ミナは母の隣でそれを聞いていた。
言っていることは間違っていない気もする。
ベルナは燃えた。人は死んだ。
でも、その話し方は、祖父の時と同じ匂いがした。
死んだ人が、まだ死にきる前に、もう次の人を動かす材料になっている匂いだ。

演説の後、徴募担当の将校が若い男たちに声をかけ始めた。
志願か、補助任務か、輸送か、土木か。
兵にならずとも戦争に加われる役目はいくらでもある。

母が小さく呟いた。

「やめて」

「何が」

ミナが聞くと、母は講堂の隅を見ていた。
そこには、ベルナで夫を失った女の息子がいた。
十七か十八くらいの少年だ。
将校の話に頷いている。

「今、決めることじゃない」

母の声は震えていた。
だが将校には届かない。
届いたとしても、届かないふりをするだろう。


前線では、南方道路の遮断が本格化していた。

エーリヒ・ヴァルナー少尉の部隊は、街道脇の林を抜け、連合側の輸送列を砲撃可能な位置まで進出していた。
双眼鏡の向こうに見えるのは、荷車、徒歩の避難民、州兵の護衛、時折混じる軍用馬車。
民と軍がまだらに混じっている。

「司令部命令、道路使用の全面妨害です」

砲兵士官が言う。

「敵兵站だけを狙うのは困難です」
「見ればわかる」

エーリヒは冷たく返した。

「では実施を?」
「……待て」

待て、と言って何分稼げるのか。
何分待っても、道の上の人間が軍と民に綺麗に分かれることはない。
それでも彼は双眼鏡を下せなかった。

避難民の列の中に、子どもがいた。背丈の低い影が、荷車の横を歩いている。
その隣に、腕を吊った女。
遠すぎて顔は見えない。
だが見えないからこそ、ベルナから逃げた誰かに見えた。

「少尉」

ブルーノが低く言う。

「連合側護衛兵がこちらを察知し始めています。先に撃たなければ位置を失う」
「わかっている」
「なら」

エーリヒは答えなかった。
命令を遅らせることはできる。
取り消すことはできない。
その違いは、良心にとってあまり意味がない時もある。

結局、最初の砲撃は別の陣地から始まった。
後方に配置された別中隊の投射機だ。
街道の中ほどで土煙が上がり、人の列が崩れる。荷車が傾き、馬が暴れ、悲鳴が風に乗って届く。

「くそっ」

エーリヒは吐き捨てた。
自分が止めたわけではない。
ただ、自分より早く別の誰かが撃っただけだ。

「我々も合わせますか」

砲兵士官が問う。

ここで撃てば、混乱はさらに広がる。
撃たなければ、命令不履行に近い。
エーリヒは歯を食いしばり、しばらく沈黙したあと、言った。

「護衛兵のいる荷車群の後方を狙え。前列は撃つな」

苦し紛れの区別だった。
後方にも民間人はいる。
前列にも兵はいる。
それでも、何もしないよりは、と自分に言い訳するしかなかった。

砲声が重なり、道は完全に止まった。


その頃、避難所の一角ではリアが応急診療班として派遣されていた。

ベルナ以降、診療所だけでは回らず、避難所ごとに巡回班が組まれているのだ。
教室を仕切った仮診療室で、彼女は咳の子どもや足を痛めた老人、熱を出した避難民を診ていた。
そこへ、街道砲撃の報せとともに新しい負傷者が運び込まれる。

「道が撃たれた」
「どこが」
「南の分岐だ」
「また?」

また。
その一言で済まされるくらい、もう珍しくなくなっている。

担架に乗せられてきたのは、肩に破片を受けた若い男だった。
服装は避難民だが、腰には州兵の短剣がある。民か兵か、その中間か。
リアは傷を見て、骨まではいっていないと判断した。

「名前は」

「レオン」

「州兵?」

男は少し迷ってから答えた。

「補助だ」

その言い方に、リアは講堂で徴募されていた若者たちを思い出した。
補助。
兵ではないと言い張れる、けれど前線の近くへ行かされる立場。

「家族は」

「母と妹が避難所にいる」

「知らせる?」

「いや……」

レオンは息を吐いた。

「心配させたくない」

その言葉に、リアは一瞬だけエーリヒが新兵へ教えた手紙の文句を知らないまま重ねる。
寒いが元気だ。
心配させたくない。
敵も味方も、家族に嘘をつく理由だけはよく似ている。


帝都では、連合側の報復動員に対抗する記事が組まれ始めていた。

セシルは編集会議で、原稿の見出し案を読み上げられるのを聞いていた。

「連合、民間人の悲劇を政治利用」
「少年らを煽る無責任な徴募」
「帝国は住民保護、連合は住民動員」

どれも間違いではない。
そして、どれも自分たちにも帰ってくる言葉だった。

「強すぎませんか」

セシルが言うと、局長は肩をすくめた。

「向こうが先に子どもを使った」
「こちらも使っています」
「保護の実例を示しているだけだ」

その言い方に、セシルはもう反論しなかった。
正面からの議論は意味がない。
ここでは、使うことと示すことの違いは、立場でしか決まらない。

会議後、彼は一人で資料室へ行き、ベルナ関係の写真を見直した。
焼け跡。救助。泣く子ども。運ばれる負傷兵。
同じ出来事から、いくらでも逆の見出しが作れる。
写真は証拠である前に、切り取りだ。

そのとき、一枚の写真に目が止まった。
燃える家の前で、帝国兵が少女の手を引いている。
少女の顔は煤で汚れ、目だけが妙に静かだ。
セシルはその目に、何か引っかかるものを覚えた。
助けられた顔というより、もう何も信じていない顔だった。

この写真も使われるだろう。
帝国の人道を示すために。
だがその少女自身は、たぶんそんな意味では写っていない。


避難所の夜、講堂では小さな口論が起きていた。

昼に徴募へ頷いた少年の母親が、担当将校に食い下がっているのだ。

「この子はまだ若い」
「補助任務です。後方支援です」
「そんな言い方で連れていくんでしょう」
「今は皆が役割を果たす時です」

そのやり取りを、ミナは毛布の隙間から見ていた。
将校の顔は穏やかだった。
怒鳴らない。脅さない。
やさしい顔で、断れないことを言う。

母親は泣きそうな声で繰り返す。

「この子しかいないの」

将校は少しだけ目を伏せ、残念そうな顔を作った。

「だからこそ、守るために必要なのです」

ミナはその瞬間、ぞっとした。
正しいことを言っているように聞こえる。
でも、その正しさは、相手から選べるものを一つずつ奪っていく。

やさしい顔で。
戦争は、そうやって人を連れていくことがある。


前線の夜更け、エーリヒは砲撃後の街道を確認するため前進した。

道には壊れた荷車が散り、馬が一頭死んでいた。
破片で破けた袋から麦がこぼれ、泥に混じっている。
負傷者はすでに連合側が回収したらしく、血と放棄物だけが残っていた。

道端に、小さな布袋が落ちている。
拾ってみると、中には乾いたパンと、子どもの字で書かれた短い紙切れが入っていた。

「おとうさん すぐ かえってきて」

エーリヒはしばらくそれを見つめ、それから袋へ戻した。
誰のものかもわからない。
わからないまま、たぶんもう届かない。

「少尉」

ブルーノが後ろから言う。

「連合側も明日には報復してきます」
「だろうな」
「街道砲撃の件、向こうの宣伝材料になります」
「こちらの戦果報告にもなる」

ブルーノは頷いた。

「だから戦争なんです」

エーリヒはその言葉に、もう怒る気力もなかった。
ただ、疲れていた。
疲れているのに、明日もまた命令が来る。

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みき

気になったことを自分の意見も交えつつ記事にしていきます。 (内容は種類にこだわらずやっていきます)

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