火は雪の下で燃える-第十三話-

第十三話 慣れていく手

戦争が始まって二週間目に入る頃、人々はまだ絶望はしてはいなかった。

絶望はもっと後に来る。
その前に来るのは、慣れだ。

砲声に驚かなくなること。
死者名簿の前で立ち止まる時間が短くなること。
包帯を巻く手が迷わなくなること。
検閲で削る言葉を、いちいち痛まなくなること。
そういう小さな順応が、静かに人を変えていく。


北方避難所の朝は、以前より整っていた。

配給の列は長いが、押し合いは減った。
炊き出しの時間、寝床の区画、洗い場の順番、負傷者の優先枠。
誰かが決めた規則が身体に入ると、人は少し生きやすくなる。
その代わり、何かを考えなくて済むようにもなる。

ミナは木椀を持って配給の列に並んでいた。
前の人との間隔、進む速度、受け取ったら脇へ寄る位置。
もう身体が覚えている。

自分が覚えてしまったことに、時々ぞっとする。
でも覚えなければ、ここでは遅れる。遅れれば、もらえない。
だから慣れるしかない。

列の少し前には、エルマーの母がいた。
街道で死んだ補助任務の少年の母親だ。
数日前まで、あの人が近くにいるだけで周囲の空気が少し重くなった。
今は違う。
人はまだ気にかけている。けれど、配給の列は進むし、炊き出しは冷める。
悲しみの横で、日課は止まらない。

「次」

配給係の声で、ミナは椀を差し出した。
薄い粥が注がれる。
受け取る時、こぼさない角度まで手が覚えている。

母は寝床で待っていた。脚は少し良くなったが、長く立つのはまだ難しい。
ミナは椀を渡し、自分の分を床に置いた。

「今日は遅くなかったね」

母が言う。

「前より進むのが早い」

「みんな慣れたのね」

その言い方に、ミナは少しだけ嫌なものを感じた。
慣れる。
良いことのはずなのに、ここでは何かを失う言葉みたいだった。

「慣れたくない」

思わずそう言うと、母は少し黙ってから答えた。

「私も」

短い返事だった。
でも、そのあと二人とも粥を食べた。
慣れたくなくても、身体は慣れていく。


臨時診療所では、リアの手つきが明らかに変わっていた。

包帯を巻く速さ。
傷の深さを見分ける視線。
熱のある子どもを抱き上げる角度。
火傷に触れる前の声かけ。
どれも最初より迷いがない。

「上手くなったわね」

マルタが薬瓶を並べながら言う。

リアは苦笑した。

「嬉しくない言い方」
「褒めてないもの」
「知ってる」

知っている。
上手くなったのは、生き延びさせる技術だけではない。
見切る速さも上がっている。
この人は助かる、この人は厳しい、この人は今すぐ処置、この人は後でもいい。
その判断が早くなるたび、自分の中の何かが少し摩耗する。

担架で運ばれてきた老人の足を見て、リアは一瞬で切断の可能性を考えた。
前なら、その考えに自分で怯えた。
今は先に布と器具を探している。

「怖くなくなった?」

ふいにマルタが聞く。

リアは包帯を結びながら答える。

「怖いよ」
「そう見えない」
「見えないようにしているだけ」

マルタは頷いた。

「それでいいのよ。見えると周りが崩れるから」

正しい。
正しいが、救いにはならない。
診療所では、誰かが落ち着いていなければ回らない。
だから落ち着いてるふりが必要になる。
ふりを続けているうちに、本当に少し落ち着いてしまう。
その変化が一番怖かった。

奥の寝台では、ダヴィドが荷運びの手伝いをしていた。
拘束を解かれても商いはできず、結局ここで雑用をしている。
包帯束を運び、水桶を替え、時々記録係の使い走りをする。
彼もまた、ここに慣れ始めていた。

「商人なのに」

リアが言うと、ダヴィドは肩をすくめた。

「運ぶのは商品から水桶に変わっただけだ」

「戻りたい?」
「戻れる場所があればな」

その返しも、前より軽く聞こえた。
軽くできるようになったのか、軽くしないとやっていけないのか、たぶん両方だ。


帝都グランヘルでは、セシル・ノイマンの机の上から躊躇が減っていた。

減った、というより、処理が早くなった。

どの手紙を掲載候補に回すか。
どの表現を弱めるか。
どの数字を見出しへ出し、どの数字を本文へ埋めるか。
どの証言を「感情的すぎる」と外し、どの証言を「市民に届きやすい」と残すか。

以前なら一つずつ引っかかっていた。
今は引っかかりながらも、手は止まらない。
止まらないこと自体が、彼を静かに苛立たせた。

「この文、少し柔らかくしてください」

秘書官が原稿を示す。

「『敵の混乱』ではなく、『敵側の退避混乱』の方が民間人への直接性が薄れます」

セシルは赤鉛筆を取り、言われる前に同じ修正をしていたことに気づいた。
秘書官が少し驚いた顔をする。

「助かります。最近、早いですね」

「そう」

短く返しながら、胃の奥が冷えた。
早い。
つまり慣れている。
言葉を薄める手つきに。

昼休み、彼は珍しく外へ出た。
広場では、慰問文を書くための小机が並び、市民が列を作っている。
若い娘が花柄の便箋を選び、老人が震える手で兵士への祈りを書く。
小さな子どもが、父へなのか兄へなのか、拙い字で「かえってきて」と書いている。

その光景は穏やかだった。
穏やかで、善意に満ちていた。
だからこそ、彼には怖かった。
誰も悪いことをしている顔ではない。
それなのに、これもまた戦争を支える列の一つだ。

セシルは自分がその列を見ても、以前ほど強く立ち止まらなくなっていることに気づいた。
嫌悪はある。
だが、驚きは薄れていた。
それが一番まずい変化だと思った。


前線では、エーリヒ・ヴァルナー少尉の部隊が再び陣地転換をしていた。

街道をめぐる小競り合いは続き、砲撃と牽制射撃は日課になりつつある。
日課。
その言葉を戦場に使うこと自体、もう何かが壊れている。

「弾薬、昨日比で二割減」
「補給は夕刻予定」
「見張り交代、三時間ごと」

命令が飛び、兵が動く。
泥、煙、乾パン、咳、見張り、睡眠不足。
それらが繰り返されると、人は異常を生活として受け入れ始める。

フリッツが銃の手入れをしていた。
手つきが前より滑らかだ。
最初は震えていた指が、今は迷わない。

「慣れたな」

エーリヒが言うと、フリッツは顔を上げた。

「嫌な言い方ですね」

「事実だ」
「少尉もですか」

エーリヒは少しだけ考える。

「……たぶん」

たぶんではない。
確実にそうだ。
砲声の距離で口径を見当つける。
負傷者の呻きで重症度を想像する。
命令の文面から、どこまでが言い訳でどこからが本音かを読む。
全部、最初より早くなった。

「帰ったあと、元に戻ると思いますか」

フリッツの問いは、妙に静かだった。
若い兵がするには、少し早すぎる問いだ。

「戻らないかもな」

エーリヒがそう答えると、フリッツは頷いた。

「僕も、そんな気がします」

その会話のあと、二人はしばらく黙っていた。
戻らないと口にしたところで、何かが軽くなるわけではない。
ただ、少しだけ正確になるだけだ。


避難所では、ミナが手紙の続きをまだ書けずにいた。

わたしたちはまだ生きています。
また書けたら書きます。

その二文のあいだに、何も増えない。
でも彼女は、前より焦っていなかった。
書けないことにも少し慣れてきていた。

それが嫌だった。

掲示板の前では、新しい照会紙がまた増えている。
最初の頃、ミナは一枚ずつ読んでいた。
今は目が必要なものだけを探すようになっている。
自分の知る名前。母の知る村名。祖父の関係者。
他人の不在に慣れていく視線だった。

そこへ、エルマーの母が来た。
前より背筋が伸びている。
泣き崩れる段階を過ぎたのかもしれない。
彼女は掲示板を見ず、配給時間の紙だけを確認して去っていった。

ミナはその背中を見て、ひどく苦しくなった。
悲しみが消えたわけではない。
ただ、配給時間を確認しないと生きられないだけだ。
その両立が、戦争の嫌なところだった。


夜、診療所でリアは手を洗っていた。

爪の間に入った血は、急いでいると完全には落ちない。
石鹸も足りない。
それでも洗う。
洗わなければ次に触れられないからだ。

水の冷たさに指先が痺れる。
その感覚さえ、もう特別ではなくなっていた。

「眠れる?」

マルタが隣で聞く。

「前よりは」

「夢は」
「見る」

リアは短く答えた。

「でも起きたら、すぐ次が来るから忘れる」

マルタは少しだけ笑った。

「それも慣れよ」

リアは顔をしかめた。

「嫌な言葉」
「でも便利」
「便利なものって、たいてい嫌」

そのやり取りに、二人とも少しだけ笑った。
笑えること自体が救いなのか、壊れ始めている証拠なのか、もうよくわからない。


帝都の夜、セシルは検閲済み私信の束を閉じ、窓の外を見ていた。

街は静かだ。
灯りがあり、パン屋があり、路面電車が走り、酔客の声が遠くで響く。
この平穏もまた、戦争の外ではなく内側にある。
そのことに、彼も少しずつ慣れている。

机上には、今日削った言葉の控えが残っていた。

怖い。
帰りたい。
寒い。
足りない。
見たくない。
もう嫌だ。

どれも紙面には載らない。
載らないことに、彼の手は以前ほど震えない。
震えないからこそ、彼はその紙を見つめた。

「慣れていく手は、たぶん一番信用できない」

誰に言うでもなく呟く。
だが明日もまた、その手で修正するのだろう。
信用できなくても、止められない。

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みき

気になったことを自分の意見も交えつつ記事にしていきます。 (内容は種類にこだわらずやっていきます)

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