第十四話 正しい位置
戦争が長引き始める時、人はまず「自分の位置」を覚える。
前へ出る者。
運ぶ者。
記録する者。
削る者。
待つ者。
祈る者。
泣く者。
そして、泣き終えて列へ戻る者。
位置が定まると、人は少し楽になる。
何をすべきかが明確になるからだ。
だがその楽さは、正しさとよく似ている。
だから危ない。
帝都グランヘルでは、戦時広報の運用がさらに整理されていた。
中央広報院の会議室には、新しい通達が配られている。
前線報道の表現統一。
民間被害への言及制限。
敵宣伝への反論文例。
私信引用時の検閲基準強化。
すべてが整っていた。
整っているほど、息苦しい。
セシル・ノイマンは通達文を読みながら、もはや驚かなかった。
驚かない自分に、わずかに嫌悪が残るだけだ。
「今後、『混乱』『被害』『損耗』などの語は、主語の選定に注意してください」
局長が説明する。
「帝国側の行為が直接的に民間へ接続される印象を避ける。逆に連合側については、住民動員・避難路混在・無秩序性を明確に出す」
会議室の何人かが頷き、何人かが黙って記録を取る。
異論は出ない。
出したところで、方針は変わらないからだ。
変わらないと知っている組織では、反論はすぐに個人の癖へ縮小される。
「ノイマン君、何か」
局長に促され、セシルは一瞬だけ顔を上げた。
「……ありません」
それが今の彼の位置だった。
言えなくはない。
だが言っても変わらない。
変わらないなら、黙って処理する。
その判断の速さ自体が、もう十分に加担だった。
会議後、秘書官が新しい見出し案を持ってくる。
「『帝国、混乱地域の秩序回復を推進』はいかかでしょう」
「便利な言い方だね」
「事実ですから」
セシルは原稿に目を落とした。
便利であることと、事実であることは両立する。
そして両立する時ほど、言葉は厄介だ。
前線では、エーリヒ・ヴァルナー少尉の部隊が小村の検問任務を命じられていた。
焼けたベルナ村より北、まだ完全には戦場化していない農村地帯。
そこを通ると荷車と徒歩民を止め、身分を確認し、物資を調べ、連合側協力者を炙り出す。
銃撃戦ほど派手ではない。
だが人を壊すには十分な仕事だった。
「通行証」
「持ってないなら荷を開けろ」
「どこから来た」
「誰を訪ねる」
兵たちの声が乾いて響く。
最初の頃なら、こうした任務はまだ後方的に見えたかもしれない。
今のエーリヒにはわかる。
こういう場所で、人は戦争を生活として飲み込まされる。
昼過ぎ、老婆を乗せた荷車が止められた。
御者は中年の男。娘夫婦の家へ向かう途中だと言う。
荷車には毛布、鍋、干し肉、古い箱。
「箱を開けろ」
兵が命じる。
男は従い、中には衣類と数冊の帳面、それに封筒の束が入っていた。
家族の手紙らしい。
兵が無造作に一通を抜き取る。
「読む必要はない」
男が珍しく強い口調で言った。
「家のものだ」
その瞬間、周囲の空気が少し硬くなる。
兵は眉を上げる。命令への小さな抵抗。
それだけで疑いの種になる。
「必要があるかはこっちが決める」
兵が言い返し、封を切ろうとした。
エーリヒは数歩で近づき、その手を止めた。
「身元確認だけでいい。私信は返せ」
兵は不満そうな顔をしたが、従った。
男は何も言わず、ただ封筒を受け取って箱へ戻した。
礼もない。
感謝すべきことではないからだ。
奪われなかっただけで、十分に踏み込まれている。
「少尉、甘いです」
あとでブルーノが言った。
「手紙に連絡情報があるかもしれない」
「あるかもしれない」
「なら」
「全部を疑うなら、ここを通る人間は全員敵だ」
ブルーノは少し黙った。
「戦場に近づくほど、そうなります」
その返答は冷たいが、事実でもあった。
エーリヒは反論しなかった。
自分が止めたのは一通だけだ。
午後には別の荷車が積荷ごと没収された。
正しさを保ったつもりの位置が、どれほど狭いかはもうわかっている。
北方避難所では、役割分担がさらに固定されつつあった。
炊き出しを手伝う者。
子どもをまとめる者。
洗濯場を仕切る者。
負傷者の寝床を整える者。
名簿変更を手伝う者。
何もしない者ではなく、何もできなくなった者。
ミナも最近、配給列の整理を少し手伝うようになっていた。
大人に頼まれたからだ。
小さい子を前に通し、空の椀を重ね、こぼした粥を拭く。
子どもの仕事としては軽い。
だが軽いからこそ、戦争の中に自然に組み込まれる。
「ありがとう、助かる」
炊き出し係の女にそう言われると、少し嬉しい。
嬉しいことが嫌だった。
ここに役立ってしまう自分が、避難民である前に避難所の部品になっていく気がする。
母はその様子を見て、複雑そうな顔をした。
「無理しなくていいのに」
「してない」
「でも、子どもの仕事じゃない」
「子どもって何」
思わず強い口調になった。
母は言葉に詰まる。
ミナは自分でも驚いた。
前ならこんな言い方はしなかった。
でも今は、子どもでいられる場所がどこにあるのかわからない。
「ごめん」
先に謝ったのは母の方だった。
そのことが、ミナには余計につらかった。
母が悪いわけではない。
でも、誰も悪くなくても、人は少しずつ変な位置へ押し込まれる。
その夜、ミナは寝床で祖父の懐中時計を開いた。
針は止まったままだ。
止まっているのに、避難所の中で自分だけが前へ進んでしまう感じがした。
臨時診療所では、リアが新しく搬送担当も兼ねるようになっていた。
人が足りないからだ。
処置だけしていればよかった時間は終わり、今は負傷者の振り分け、寝台の調整、薬の不足報告、家族への説明まで回ってくる。
「あなたがこっちへ」
「この子は今は寝かせて」
「家族は外で待ってて」
声をかけるたび、自分が少しずつ「回す側」になっていると感じる。
ただ助けるだけではない。
どこへ置くか、誰を後回しにするか、誰に今は会わせないかを決める側だ。
「向いてるわよ」
マルタが言った。
「何に」
「仕切るのに」
「嫌な褒め方」
「ここでは必要」
必要。
その言葉は何度も聞いた。
必要であることは、時々人を正当化する。
必要だから仕方ない。
必要だから今はこれでいい。
必要だから感情は後でいい。
リアはその論理が嫌いだった。
だが同時に、自分もそれで動いていると知っていた。
午後、エルマーの母が診療所へ来た。
何かの処置ではない。
ただ、息子の死亡時刻と、最後に誰がそばにいたかを知りたかったのだ。
「記録には詳細が残っていません」
記録係が答える。
事務的で、正しい返答だった。
だが母親の顔は、その一言で少し空になった。
リアは横から口を挟みかけて、やめた。
自分も知らない。
知らないのに、慰めの形だけ差し出すのがひどく嫌だった。
母親は小さく頷き、帰っていった。
その背中を見ながら、リアは思う。
自分の位置は、助ける側のはずだった。
なのに今は、知らないことを告げる側にもなっている。
帝都の夕方、セシルは父からの書簡をまた受け取った。
「君の働きぶりを新聞で見た。国家が混乱に陥らぬためには、感情より秩序が先だ。君は正しい位置にいる」
正しい位置。
その言葉を読んだ瞬間、彼は妙に疲れた。
父にとって、自分は前線にいない。
血も浴びない。
銃も持たない。
だからこそ、秩序を守る場所にいる。
それは父なりの信頼でもあるのだろう。
だがセシルには、その「正しい位置」が、自分を最も醜くしている場所にも思えた。
机の上には、今日修正した原稿がある。
「避難民を盾にした敵の無秩序な移送」
「帝国軍、慎重な検問で地域安定に寄与」
「市民の善意、前線へ届く」
どれも完全な嘘ではない。
完全な嘘ではないから、なおさら厄介だ。
自分は嘘つきではなく、整える者としていられる。
その位置が、一番の逃げ道になる。
夜、前線の検問所で、昼の男が戻ってきた。
娘夫婦の家はすでに空だったらしい。
引き返してきた荷車を見て、兵がまた止めようとする。
エーリヒはそれを手で制した。
「通せ」
男は少しだけエーリヒを見た。
感謝でも憎悪でもない、疲れた目だった。
「家がない」
通り過ぎざま、男がぽつりと言う。
エーリヒは何も返せなかった。
返せる言葉がない。
正しい位置に立っているつもりでも、その位置から見えるのは、結局こういう遅すぎる事実ばかりだ。
