火は雪の下で燃える-第十七話-

第十七話 戻ってきた声

戦争の中では、失われたものがそのまま戻ってくることはほとんどない。

戻ってくるとしても、別の形だ。
遺品として。
数字として。
噂として。
検閲された手紙として。
あるいは、もう本人ではない声として。

それでも人は、戻ってくることを期待してしまう。
期待しなければ、待つという行為そのものが成り立たないからだ。


北方避難所では、その朝、一通の手紙が届いた。

宛名はエルマー・ディーツ。
街道で死んだ、補助任務の少年の名だ。

配給係は事象を知らず、名簿を見ながら呼んだ。
講堂の隅にいた母親が、ゆっくり顔を上げる。
周囲の空気が一瞬だけ止まった。
だが配給係はまだ気づかない。

「エルマー・ディーツ宛て、家族受領でも可」

母親が立ち上がり、手を伸ばした。
その動作は落ち着いていた。
落ち着きすぎていて、逆に見ているほうが苦しかった。

「息子は、もう」

そこまで言って、少しだけ詰まる。
それでも彼女は最後まで言った。

「死にました。私が受け取ります」

配給係は青ざめ、何度も謝った。
だが謝罪はもう遅い。
名前を呼んだ時点で、いったい戻ってきてしまったのだ。
死んだはずの息子の声が、宛名の形で。

ミナは少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。
胸の奥がざわつく。
戻ってきた。
でも本人ではない。
紙だけが遅れて着いた。

母親は封を切らず、しばらく立ったままだった。
周囲の誰も声をかけない。
かけられない。
やがて彼女は寝床へ戻り、膝の上に手紙を置いたまま動かなくなった。

その日の避難所では、誰もそのことを大きな声で話さなかった。
けれど皆、知っていた。
死んだ人にも手紙は届く。
戦争では、それが珍しくない。


臨時診療所に、その手紙は午後になって持ち込まれた。

エルマーの母が、リアにだけ見せたのだ。
開けてほしい、とも、開けたくない、とも言わずに。

リアは少し迷った。
これは医療ではない。
でも、今この人に必要なのは、たぶん包帯より近い何かだ。

「一緒に見る?」

そう聞くと、母親は頷いた。

封を切る。
中には、粗い紙に短い文があった。
差出人は、南方の補助輸送隊にいる同郷の若者。
エルマーより少し年上らしい。

「おばさんへ。エルマーは前に会った時、母さんは泣くと困るから、自分は危ないところへは行っていないと伝えてくれと言っていました。本当は怖がっていました。でも、誰かが運ばないと困るからと笑っていました。あの日、道で最後まで荷車を押していたのを見ました」

そこまで読んだところで、母親が顔を覆った。
泣き声は大きくなかった。
むしろ、息が壊れるみたいな静かな崩れ方だった。

「笑ってたの」

彼女の指の隙間から言う。

「怖かったのに」

リアは何も言えなかった。
慰めの文句はたくさん知っている。
だが今それを言えば、全部が軽くなる気がした。

手紙の続きには、こうあった。

「立派だったと書くべきか迷いました。でも、そういう書き方は違う気がしました。エルマーは立派というより、帰りたがっていました」

リアはその一文で、喉が詰まった。
立派だったと書くべきか迷いました。
その迷いが残されているだけで、この手紙はひどくまともだった。

「……これ、残していいかな」

母親が言う。

リアは頷いた。

「もちろん」

残していいか。
誰かの死の言い方を、自分で選び取れるかどうか。
その問いが、今の時代にはもう贅沢に近かった。


帝都グランヘルでは「支える手」の第一回が掲載されていた。

セシル・ノイマンの寄稿も、その中にある。
整った文字、整った理屈、整った責任感。
朝、同僚たちは好意的な反応を示した。

「よくまとまっていました」
「冷静でよかったです」
「読者受けもいいでしょう」

どれも想像通りだった。
褒められるほど、気分は悪くなる。

昼前、広報院に一通の投書が届いた。
掲載記事への感想として分類されたが、内容は短い。

「あなたたちは支えているのではなく、続けやすくしているだけではありませんか」

匿名。
筆跡は乱れている。
掲載には回らない。
返答もされないだろう。
だがセシルは、その一文から目を離せなかった。

支えているのではなく、続けやすくしているだけ。
まさに、自分が言語化したくなかったことだった。

「不適切ですか」

若い職員が聞く。

セシルは少し間を置いてから答えた。

「……保留で」

「掲載候補には?」
「回さない」

職員は頷き、投書を別の束へ移した。
それで終わりだ。
終わりにできる。
そのことが、彼には重かった。

午後、父から短い書簡も届いた。
寄稿を読んだらしい。

「立派な文章だった。君は自分の位置を理解している」

またその言葉だ。
立派。
位置。
理解。
どれも今の彼には、少しずつ人間を削る道具に見えた。


前線では、エーリヒ・ヴァルナー少尉のもとに後方から郵便が届いていた。

珍しく、彼自身充ての手紙でもある。
母からだった。

「こちらは変わりありません。あなたの父も、新聞で前線の進展を読み、君の働きを誇りに思っています。無理はしないで、と書きたいところですが、あなたはきっと務めを果たすのでしょう」

母らしい文だ。
心配と諦めが、きれいに同居している。

封筒の中には、もう一枚小さな紙が入っていた。
妹からの追伸だった。

「お兄さまへ。母は平気なふりをしていますが、夜に眠れていません。だから、返事には元気だとだけ書いてください」

その一文に、エーリヒは少しだけ苦く笑った。
家族の中でも検閲がある。
心配を増やさないための、善意の検閲だ。

彼は便箋を出した。
何を書くべきかは、もうわかっている。

寒いが元気です。
任務に支障はありません。
こちらは落ち着いています。
どうか心配しないでください。

書きながら、手が止まる。
昨日接収した毛布。
街道で崩れた列。
検閲で裂いた手紙。
全部が「落ち着いています」の外側にある。

それでも彼は書いた。
母を眠らせるために。
妹の頼みを守るために。
そして、自分自身もその文面の方が楽だからだ。

書き終えたあと、彼は少しのあいだ紙を見つめていた。
戻っていくのは自分の声ではない。
家族が安心できる形に整えた、別の声だ。


避難所の夕方、ミナは自分の書きかけの手紙をまた開いた。

わたしたちはまだ生きています。
また書けたら書きます。

その二文のまま、ずっと止まっている。
だが今日、エルマー宛ての手紙を見たことで、少しだけ考えが変わった。

「遅れて届くこともあるんだね」

母に言うと、母は頷いた。

「そうだね」
「死んでからでも」
「……そうだね」

その返事のあと、少し沈黙があった。
ミナは紙を見つめたまま、ぽつりと言う。

「じゃあ、今書いたことも、届く頃にはもう違うかもしれない」

母はすぐには答えなかった。
それから小さく言った。

「でも、違ってしまう前にしか書けないこともある」

ミナはその言葉をしばらく考えた。
それから、ゆっくり続きを書いた。

お母さんは足をけがしています。
私は手伝いをしています。
おじいちゃんの時計は止まっています。

そこまで書いて、また止まる。
でも今日は、前より少しだけ進んだ。


診療所の夜、リアはエルマーの母から預かった手紙の写しを記録の裏側へそっと書き留めていた。

正式な記録ではない。
残す必要もない。
でも、消えてほしくなかった。

「立派だったと書くべきか迷いました。でも、そういう書き方は違う気がしました。エルマーは立派というより、帰りたがっていました」

写しながら、リアは思う。
こういう言葉は、たぶん公には使われない。
英雄譚に向かない。
動員にも向かない。
だからこそ、本当の輪郭に近い。

マルタが後ろから覗き込み、何も言わずに去っていった。
咎めない。
許しもしない。
ただ見た。
それだけで十分だった。

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みき

気になったことを自分の意見も交えつつ記事にしていきます。 (内容は種類にこだわらずやっていきます)

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