第十八話 焼け残るもの
村が焼けたあとにも、すぐには消えないものがある。
石壁の一部。
井戸。
歪んだ鍋。
煤けた鍵。
焼け焦げた手紙。
そして、人がそこに住んでいたという感じだけが、妙にしつこく残る。
戦争は何かを一度では消さない。
半端に残す。
半端に残るから、人はそこへ戻ろうとしてしまう。
北方避難所では、数人の避難民が南方の焼け跡へ戻ろうとしたという噂が流れた。
ベルナ村だけではない。
その周辺の小村や農家でも、家財の回収、家畜の確認、埋めた食料の掘り出し、墓の様子見を理由に、危険を承知で戻るものがいる。
止めても行く。
行かなければ、この先を生きる材料が足りないからだ。
ミナの母も、その噂を聞いてから妙に静かだった。
足の傷は少しずつ良くなっている。
まだ長距離は無理だが、立てる時間は増えた。
「戻る人、いるんだね」
ミナが言うと、母は短く頷いた。
「いるでしょうね」
「うちも?」
その問いに、母はすぐには答えなかった。
答えない時間が長いほど、ミナは嫌な予感がした。
「食器とか、布とか、もし残ってたら」
母は独り言のように言った。
「冬の前に、少しでも持ち出せるなら」
「危ないよ」
ミナが強く言うと、母はようやくこちらを見た。
「危ないのは知ってる」
「じゃあ行かないで」
「行くって言ってない」
そう言いながら、母の顔にはもう半分決まっているものがあった。
ミナはそれを見て、胸が冷えた。
止めたい。
でも、止める言葉が足りない。
残っているかもしれない毛布や鍋や布が、この避難所では実際に役に立つとわかってしまうからだ。
その日の夜、ミナは手紙の続きにこう書いた。
もし家がまだ少し残っていたら、何を持ってくるべきでしょうか。
親戚に向けた文なのに、実際には自分で答えを探しているみたいだった。
前線では、南方農村地帯の「再確認任務」が出ていた。
焼け跡や放棄家屋に連合側協力者が潜伏していないか、物資の隠匿がないかを調べる。
名目は治安維持。
実際には、戻ってくる民間人をも監視する任務だった。
エーリヒ・ヴァルナー少尉は、その命令書を読んだ時から嫌な予感がしていた。
焼けた場所には、人は戻る。
戻る理由はたいてい軍事ではない。
だが戦場では、軍事でない行動ほど疑われる。
「ベルナ周辺も含まれます」
ブルーノが地図を示す。
「最近、焼け跡へ出入りする者がいると報告が」
「住民だろう」
「かもしれません」
「協力者かもしれない、か」
「そうです」
その「かもしれない」がまた全てを広げる。
部隊は午前中に出発し、焦げた農道を進んだ。
道端には焼けた柵、崩れた納屋、黒くなった果樹が点々と残る。
完全に消えたわけではない景色。
だからこそ、元の生活の輪郭が逆に見えてしまう。
ベルナ村の外れに差しかかった時、見張り兵が声を上げた。
「人影」
崩れた石壁の向こうに、二人。
一人は女。
もう一人は小さな子どもに見える。
荷袋を持っている。
「止まれ」
兵が叫ぶ。
女はびくりと肩を震わせ、振り返った。
その瞬間、エーリヒの胸が嫌な形で縮む。
見覚えのある顔だった。
街道の列の中で見たかもしれない、腕を吊った女。
そして、その横の少女。
同一人物だと断言できるほど近くはない。
だが、そうであってもおかしくない。
「何をしている」
兵が問う。
「家のものを……」
女の声は掠れていた。
「鍋と布だけです。すぐ帰ります」
兵たちの銃口が下がらない。
焼け跡へ戻る。
荷を持つ。
隠し物の回収にも見える。
そういう理屈は、いくらでも作れる。
「荷を見せろ」
女は従い、袋を開けた。
中には煤けた布、欠けた皿、古い帳面、鍵束。
ただの家の残骸だった。
それでも若い兵の一人が言う。
「伝令文書の隠匿かもしれません」
エーリヒはその言葉に、強く疲れた。
帳面。
鍵。
布。
何でも疑える。
疑えるから、戦争は止まらない。
「少尉、どうします」
ブルーノが聞く。
判断が必要な声だった。
通すか、拘束するか、没収するか。
エーリヒは女の手元を見た。
鍵束を握る手が白くなっている。
帰るつもりだった者の手だ。
あの日、荷車の下で死んでいた女の鍵束が頭をよぎる。
「……記録だけ取って通せ」
兵の一人が不満そうに言う。
「しかし」
「家財回収だ。武器も文書もない」
「少尉」
今度はブルーノの声が低くなる。
止めるな、とは言わない。
だが責任は残るぞ、という声だった。
「記録だけだ」
エーリヒは繰り返した。
女は何も言わず、ただ深く頭を下げた。
礼というより、早く終わってほしい人の動きだった。
少女はエーリヒを見た。
その目に感謝はなかった。
当然だ。
通されたことは恩ではなく、本来奪われるべきでないものを辛うじて奪われなかっただけだ。
避難所に戻った母は、何も言わなかった。
ミナも、何を言えばいいかわからなかった。
結局、母は翌朝早くに一人で出たのだ。
止める前に。
だが帰ってきた時、ミナはすぐにわかった。
荷袋に入っているものが、ただの物ではないことを。
煤けた鍋。
布。
祖父の帳面に似た古い冊子。
そして、家の鍵。
「行ったんだ」
ミナが言うと、母は疲れた顔で頷いた。
「少しだけ」
「一人で?」
「途中で、戻ってきた人たちと一緒になった」
嘘ではないかもしれない。
でも全部でもない気がした。
ミナは荷袋の中を見つめた。
「残ってたんだ」
「残ってたというより、焼け残ってた」
母はそう言って、鍵を手のひらに乗せた。
黒く煤けている。
でも形は残っている。
「これ、もう使えないかもね」
その声が妙に静かで、ミナは返事ができなかった。
使えないかもしれない鍵。
それでも持ち帰る。
帰れないかもしれない家の証拠として。
「兵に会わなかった?」
ミナが聞くと、母は少しだけ目を逸らした。
「会った」
「何かされた?」
「……荷を見られただけ」
それだけ。
でも、その「だけ」の中にどれだけの緊張があったかは、母の顔を見ればわかった。
帝都グランヘルでは、南方農村の「安定化」が記事になっていた。
セシル・ノイマンは原稿の見出しを見て、しばらく黙った。
「帝国軍、焼失地域の治安回復を着実に推進」
本文には、放棄家屋の確認、潜伏協力者の摘発、住民の安全な帰還支援、と並んでいる。
住民の安全な帰還支援。
その言い方に、彼は苦いものを覚えた。
検問し、荷を開かせ、疑いの目で見て、それでも「支援」と書ける。
「問題はありますか」
秘書官が聞く。
「……ない」
セシルはそう答えた。
問題はある。
だがここで言える種類の問題ではない。
それに、記事としてはよくできている。
よくできているから、なお悪い。
午後、その記事に添える現地報告の中に、短い一文があった。
「一部住民は焼失家屋から生活必需品を回収しつつあり、我が軍は必要な確認を行ったうえで柔軟に対応している」
柔軟に対応。
その語に、セシルは妙に引っかかった。
柔軟。
つまり、奪うことも通すことも、どちらもできるということだ。
その裁量を善意のように書く。
彼は赤鉛筆を持ち、少しだけ迷ったあと、その発言を残した。
残したということは、諦めたのと同じだった。
診療所では、その日の午後、焼け跡から戻った避難民が数人運び込まれていた。
転倒による捻挫、煙で悪化した咳、古い釘による裂傷。
どれも「無茶をした結果」と言えなくもない。
だが無茶をしなければ、毛布も鍋も、冬を越す手段も足りない。
リアはその一人として、ミナの母を見て息を呑んだ。
「行ったの?」
責めるつもりではなかった。
でも声は少し強くなった。
母は視線を逸らす。
「少しだけ」
「少しで済む場所じゃない」
「わかってる」
わかっている。
その答えは、たいてい止める力を持たない。
リアは母の足を診た。
傷は大きく悪化していないが、無理をしたせいで腫れが戻っている。
「また悪くなるよ」
「でも、鍋があったの」
母はぽつりと言った。
「布も。鍵も。」
リアは一瞬、言葉を失った。
鍋。布。鍵。
どれも小さい。
小さいのに、そのために戻る気持ちがわかってしまう。
ミナは傍らで黙っていた。
その沈黙が、妙に大人びて見えた。
見たくない種類の大人び方だった。
「兵に止められた?」
リアが聞くと、母は少しだけ頷いた。
「でも通された」
その言い方に、リアは何とも言えない気分になる。
通された。
恩赦のように聞こえる。
本来は自分の家の残骸を取りに行っただけなのに。
前線の夜、エーリヒはその日の記録を見直していた。
焼失地域確認。
住民二名。
生活物資回収。
危険物なし。
通行許可。
たったそれだけの文で、あの母娘の緊張も、鍵束を握る手も、少女の目も消える。
消えるから記録としては正しい。
正しいから、余計に嫌だった。
ブルーノが隣で言う。
「今日の件、穏当に済ませましたね」
「そうか」
「拘束も押収もできた」
「しなかった」
「少尉は、それで自分を納得させるつもりですか」
エーリヒは顔を上げた。
軍曹の声に責める響きは薄い。
むしろ確認に近い。
「……少しはましだったと思いたい」
そう答えると、ブルーノは短く頷いた。
「人はそうやって続けます」
肯定でも否定でもない言い方だった。
続ける。
そのための比較。
少しはまし。
全部は奪わなかった。
撃たなかった。
通した。
そうやって自分の形を保つ。
夜、ミナは持ち帰られた鍵を手に取った。
冷たい。
煤が指に少しつく。
鍵穴がもう残っていないかもしれない鍵。
それでも、これだけは「家」だった。
彼女は書きかけの手紙の最後に、もう一行だけ足した。
鍵だけ持って帰りました。
それが何を意味するのか、自分でもまだわからない。
でも、その一文だけは、今の自分にとって本当だった。
