夕暮れの教室には、埃の混じった橙色の光が斜めに差し込んでいた。
放課後特有の、どこか浮き足立った空気が部屋を満たしている。
机を並べてグループを作り、スマートフォンを覗き込みながら談笑するクラスメイトたち。
甲高い笑い声や、抑えきれない興奮を含んだ話し声が、湿った空気のように室内に立ち込めていた。
私は自席に座り、開いたままのノートの端を指でなぞりながら、彼らの様子をぼんやりと眺めていた。
周りにいる人を見ると、頭に浮かぶのはろくな言葉ではない。愚民、衆愚、愚鈍。その類の過激で冷徹な言葉が、あまりにもしっくりと彼らの背中に当てはまってしまう。
私と彼らの間には、容易に超えられない巨大で透明な壁がある。
彼らがその内側で呑気に戯れ、互いの体を寄せ合って温もりを確かめ合っているのを、私は壁の外という冷たい場所から冷めた目で見つめている。ずっと、そんな気分だった。
「ねえ、知ってる?隣のクラスのアイツら、また別れたらしいよ」
「えー、噓でしょ!先週まであんなに仲良かったのに?」
「なんかさ、返信が遅いとかそういう理由らしくて。マジウケるよね」
壁の向こうから漏れ聞こえてくる会話には、驚くほど中身がない。
彼らは口を開けば、ペラペラの紙のように薄っぺらい理想や感情を吐き出している。
話を聞いていると、どうやら彼らは恋愛という現象に異常なほど興味があるらしい。
誰が誰を好きになったとか、誰と誰が付き合い始めたとか、誰が振られて別れたとか、恋だの、愛だの、運命だのと、彼らは誇らしげにその言葉を口にする。
だが、その会話を聞くたびに胸の奥あたりが疼くような違和感を覚えるのだ。
彼らが発する言葉のすべてには、本来あるべきはずの重みがすっぽりと抜け落ちている。
恋とは何か。愛とは他者を己の人生に招き入れるという不可逆の契約ではないのか。
彼らは「愛している」だの「永遠」だのと軽々しく語るが、それが一体何を意味するのか、その言葉を背負うことがどれほど恐ろしいことなのかを、一度でも真剣に考えたことがあるのだろうか。
おそらく、一度だってないのだ。
だから彼らの言葉はどこまでも軽く、風が吹けば飛んでしまうほどの質量しか持たない。
真実の愛だの、運命の出会いだのとロマンチックな飾りに興じる前に、もっと根本にある「他者と関わることの恐怖と責任」について考えなければいけないと、私は切実に思う。
しかし、彼らはそんな問いをあざ笑うかのように、同じサイクルを永遠に繰り返している。
誰かを好きになり、熱病にかかったように付き合い、やがてくだらない擦れ違いで別れる。
そして、ひと月かふた月も経てば、かつて愛したはずの相手のことなどさっぱり忘れ去り、何事もなかったかのように次の対象を探し始める。
まるで古くなった服を脱ぎ捨てて新しい服に着替えるような、軽薄で無機質な反復。
彼らにとっての「恋」とは、その程度の消費財でしかないのだ。
それなのに、彼らは舞台の上に立つ役者のような仕草を好む。
「俺、あいつのためなら何でもできる気がするんだ」
「私、今回の恋には本気だから」
彼らはよくやるのだ。
悲壮感漂う真剣な眼差しをつくり、いかにも腹を括ったかのような「覚悟のある顔」をして、小説の台詞のような「覚悟のある言葉」を吐き出し、世界で自分たちだけがドラマの渦中にいるかのような「覚悟のある行動」をとってみせる。
何かの物語の主人公にでもなったつもりでいるのだろう。
運命の波に揉まれる悲劇のヒーローやヒロインを演じることで、自分という存在が特別なものになったと錯覚しているのだ。
だが、どれほど劇的に振る舞おうとも、実が伴うことは決してない。
それもそのはずだ。
彼らは「覚悟」などという、己の人生を削って差し出すような大層なものは何一つ持ち合わせていないのだから。
ないものは、どうやったって沸いては来ない。
持っていない以上、本物の覚悟に基づいた選択などできるはずもないのだ。
空っぽの箱をどれほど豪華な包装紙で包んだところで、中身が空洞であることに変わりはない。
彼らが演じるドラマは、すべてハリボテの舞台装置の上で繰り広げられる、おままごとに過ぎない。
そんな冷めた思考を頭の中で巡らせるようになってから、もう三年がたつ。
季節は幾度か巡り、周囲の顔ぶれも少しずつ変わり、校庭の桜の木は何度も花を咲かせては散らせた。
しかし、私の立ち位置だけは微動だにしなかった。
私はいまだに、あの冷たい壁の外側から彼らを見つめ続けている。
