今夜中あんな感じだろうか、星が見える時間になると、いつも夜空を見上げてあぁして棒立ちになっている。呟く声は、私の記憶にない、どこの言語でもないどこかの言葉だ。いくら夜から逃げようとしても、いくら朝日を嫌っても、時間は残酷に過ぎていく。この頃記憶を失うペースが速い、もしかしたら今日のことは明日覚えてないかもしれない。ズキズキとないはずの心が痛む、もしずっと一人きりだったら、こんな気持ちになることも無かったのに、そんな身勝手な考えに頭を振った。そういえば、イブが記憶を失い始めてから、たまに星以外の何かが空に浮かんでいる気がする。ふと、彼の一言を思い出した。
『だから、赤は嫌いなんだ』
赤い瞳に赤い髪をしたイブを見ていると、彼らのことを思い出す。時折彼女の言葉に合わせて、彼らがゆらゆらと揺れていることもあった。もし、空に浮かぶ何かと、赤い花と、彼女に何かしらの関係があるのなら、……だからどうしたというんだ、だから何ができるというんだ。もう、私は諦めてしまった、ただ彼女の最後の望みをかなえるだけだ。
「それだけしか、今の私にはできないんだ」
自分の無力さにとことん辟易する、ここから暫く歩いたらあの丘にたどり着く。さらに歩けば、イブと出会ったあの都会につく。彼女が記憶を失いだしてから、私は機能停止しないための食事をやめた。補助用のバッテリーだけでなんとか動いている。
「イブが全て忘れたら、私はもう」
彼に否定された私の存在意義も、イブに与えてもらったものだ。もしイブが私を忘れるのなら、私はこの命を投げ出すつもりでいる。それでいい、し、それがいいんだ。
いつぞやに来た小高い丘の上に来た、イブはこの頃夜を待たずに空を見上げるようになっている。記憶を失うたびに、彼女は彼女じゃなくなっていく。あと、イブの記憶はどれだけ残っているんだろう、私のバッテリーと同じくらいだろうか。
「ねぇ、アダム、私やりたいことがいっぱいあるの!」
くるくると踊るようにして回るイブ、段々と動くのがおっくうになってきた。考えることすらもうやめてしまいたい。ふと何かの気配を覚え辺りを見回す。数頭の肉食獣がにじり寄ってきている、まずい、今襲われたら、イブを守り切れる自信がない。
「見て! 大きな猫ちゃん!」
イブが肉食獣に気付くと駆け寄っていく、慌てて駆け寄ろうとしたが足が重くて動けない。背負っていた矢を掴み、なんとか弓を引き絞る。一頭に狙いを定め矢を放つと、間一髪のところで避けられてしまった。
「イブ! 逃げろ!」
不思議そうな顔で振り返るイブを通り過ぎて、数頭の肉食獣はまっすぐ私へと飛び掛かってくる。ナイフを取り出し構える前に、一頭に顔の左側を食い破られる。激痛とともに左目の視界が消え去る。悲鳴を上げ駆け寄ってくるイブの手を取ると、残りの体力を振り絞り駆け出した。かなりまずい、激痛は何より、残り少ないバッテリーが尽きそうだ。
「イブ、君だけでも逃げてくれ」
さっきの様子だと肉食獣の狙いは私だけだ。私はイブを突き飛ばすと、最後の力を振り絞りビル群へと走っていく。ふと後ろを振り返ると、肉食獣の数が増している。イブがこっちに来る気配はない、また立ち尽くしているのか、いや、もういい、彼女が無事ならそれだけで十分だ。段々重くなる足を引きずるようにして、漸くイブと出会った始まりの場所へ来ると、物陰に隠れ辺りの様子を窺った。
「く、意識、が」
視界を覆い隠すエラーメッセージの隙間、走馬灯のように今までの思い出が脳内を駆け巡る。全身から力が抜け、その場に倒れこんだ。
どこからか、声が聞こえる。
大切な誰かだった気がする。
大切な思い出があった気がする。
途切れがちの意識の中、赤い何かが空を覆いつくしていた。