秘匿性感情症候群、と言われるそれは、高校生の間に、宿主から一番遠い感情が異性の人型を成して現れる。例えば、今まで殆ど怒ったことが無いような人ならば、怒りの感情が男性ないし女性の姿で現れるというものだ。
高校に入ったら、耳にタコができるほど聞かされたそれは、実際俺には遠い先の話だと思っていた。昔は感情が人の形になって、しかもそれに人権を持たせる、なんてことありえないし、非現実的だと言われていたらしいが、今では十代後半の約半数が感情だ。男子校も女子高もなくなって、今では共学が当たり前、少子高齢化なんて話もあったらしいが、今では子供さえ生まれれば、最終的には二人になるんだから楽な話だよな。
感情ってのはある日突然現れるらしい、寝て起きたら隣に寝てた、ってのがだいたいのパターンで、しかも宿主とはまるで似ない、ってのもまた面白い。
ま、どんな奴が来ても、受け入れようとは思ってる。たとえそれが自分が一番見たくない何かだとしても、自分の一部だったことには変わりないんだからな。
明日から夏休み、課題さえこなせば、後は自由気ままな日々が始まる。学生で良かったと思うのは、この長期休みの時くらいなもんだ。大人になったら長期休みはない、と聞いてぞっとしたのは別に俺だけじゃないだろう。机に置いた山のような課題を見つめながら、ベッドの中にもぐりこんだ。夏休み中の予定を考えているうちに、次第にまぶたが重くなってくる。ぼうっと天井を眺めているうちに、やがて意識を手放した。
「おっはよぉー!」
聞き慣れない誰かの声に叩き起こされた。恐る恐る目を開けると、同い年くらいの女の子が俺の顔を覗き込んでいる。快活そうな雰囲気のその女の子は、じっと俺を見つめてにこにこと笑っていた。
「え、誰?」
思わず呟いたその一言に、女の子は腕を組んでうなり始めた。名前がないなんてありえない、と口から出かかった言葉を飲み込む。そうか、この子が、例のあれか。
「なんて呼べばいい?」
ベッドから起き上がり、女の子に視線を合わせる。えぇっとねぇ、と相変わらず腕を組んでうなっている。昨日今日生まれたばかりの子に、なんて呼べばいい、ってのも難しいか、お互い黙り込んだまま、あっちを見たりこっちを見たりしだした。
「多分知ってると思うけど、俺の名前は、御堂直樹、ね」
女の子は、知ってるよぉ、それくらい! とにこにこと笑っている。さて、いったいこの子は、俺の何だ? なんせ、自分から一番遠い感情だ、そうそう直ぐに分かるもんでもない。喜怒哀楽のどれかか? ……いや、人並みにそういう感情はあるはずだ、とはいえ喜怒哀楽以外に思いつく感情なんてないしな、いったい何の感情なのやら。
「とりあえず、呼び名がないのはこっちも困るから、幸って書いて、コウでどうかな?」
女の子は、暫く、コウ、コウ、と呟いた後、こくんと頷いた。
「殆どの人は、サチって読みそうだね」
気に入らないなら別の名前にする? と少しぶっきらぼうに聞くと、幸はぶんぶんと首を横に振った。じゃあ、これからよろしく、そう言って手を差し出すと、幸はにっこりと笑いながら俺の手を握り返した。