注意 この小説には「暴力、暴言」「虐待」「自死」の描写があります。 団地前のバス停留所。 わたしの家の目の前。 暑い日差し。 夕焼けの景色。 散々わたしがトスをあげて、彼女がまともに動けなくなるまでバレーボールを反対のコートに打ち込んで、どこもかしこも汗まみれ。 部活帰りには当然体もヘトヘトで限界だというのに、突き刺すような夏の西日に照らされても、わたしたちは真っ直ぐお家には帰らずに自宅近くのバス停留所に設置されたアーチ型の銀色のポールにおしりを二つ並べて座っていた。 「あいつら、笑ってた」 「仕方ないんじゃない。妹ちゃんが包丁を持って突っ込んできたから取り上げて動けなくなるまで殴ったって言われても、そんな日常に身を置いたことが無ければ理解出来ないし想像も出来ないよ」 わたしは当たり前だと笑った。 学友たち、部活メンバーの方々が、理解したところでリアクションに困って苦笑いを浮かべたとしても、それは責められない。 わたしたちが困ったとき、空元気で笑うように彼女たちもまた笑うしかないから、どちらにしろ仕方ないと各々への配慮を付け加えると彼女はわたしを一瞥した。 わたしはまた笑ってしまった。 困った時ほど笑顔が増える。 「だって部活のメンバーやクラスメイトに話してどんなリアクションを期待してるの?」 「死ねばいいのにって思ってるよ」 彼女が死ねばいいといって、わたしは笑った。 それ、リアクションとして死ねって言ってるの? 彼女が頷いたので、わたしは更にツボに入って笑ってしまった。 彼女が学友や部活メンバーに語った、彼女の実の妹が包丁を持って突っ込んでくる話。 このエピソードはわたしのお気に入りだった。 実の妹が、小学四年生の妹が包丁を持って中学一年生の彼女の腹部目掛けて突っ込んで完全に殺しにきているような状況の中で、彼女は何の躊躇いもなく自分の生命を優先して、妹を殴りつけ見事に勝利した。 生き残った。 つまりは、家でいつ母親の恋人に殺されるかとびくびくして自殺を考える臆病者のわたしとは大違い。だからわたしは彼女が好きで仕方なかった。 生命力が溢れる彼女が眩しかった。 部活帰りの小さな会合。 でもこれは、あくせく走り込みを終えた後のバレー部のミーティングなんかじゃない。 〈どうやってくるしみを伝えればいいかを考える会〉だ。 「やっぱりさ、くるしみを伝えるには限界があるわけ」 アーチ型の銀色のポールを椅子がわりにして両脚を浮かせてバランスを取りながら、くるしみを伝えることの限界を彼女は説く。 「でもあなたが、辛い目にあってるのはみんな分かっているはずなのよ」 隣に座っているわたしが優しく諭す。 興奮した犬を宥めるようにしたつもりだったけれど、彼女は特に自分の怒りを鎮める様子は無かった。 彼女のバレー部のユニフォームから隠れない所にある傷。 むき出しになった、手足に残る傷の数々。 自傷でも部活の怪我でもない、家庭で出来た痣。 誰が見ても分かってしまう。 親切で綺麗なSOS。 だからとても煩わしい。 「そう、みんな分かってはいるよ。私が辛いっていうのはね。でも家族の問題は残念だけど誰も助けられない。その辺みんな上手く心得てる」 それを心得てるのは誰よりも彼女自身だ。 わたしはその言葉を言わないように、黙り込んで慌てて表情を探す。どうしても適切な表情が分からないので結局無難に困ったように微笑むことしか出来なかった。 結局わたしも学友や部活の方々と変わらない。困った時は笑うしか出来ない子供だった。 彼女も分かっているのだ。誰も彼女を助けてはくれないことぐらい。そして、誰かに助けを求めることの図々しさを、子供ながらに理解していた。理解するのが早すぎるくらいに諦観していた。 だからわたしは、なんの慰めにもならないけれど、無意味にうんうんと頷いた。 「アンタもそうだよね」 「そうかな」 いきなり彼女がわたしの話をしだしたので不意打ちを食らった気分だった。 確かに小学二年生から中学一年生の今まで、母親の恋人に殴られ続けてはいるけれど、他人の男に殴られるより実の妹に殺されかけた彼女の方が辛いんじゃないだろうか。 「アンタは自分の辛さを笑ってもらう代わりに、周りにくるしみを話させて貰ってるんだ」 確かにわたしは、自分の不幸話を笑い話にするのが得意だ。 この前はクラスの友人にそのネタでヨシモト行きなよ!と抱腹絶倒されながら薦められるくらい不幸話を笑い話に昇華するのは得意だし、誰かに笑ってもらえるのは心地良い。 「別にわたしは笑われるの嫌じゃないし、笑ってもらうの好きだし」 彼女は心底嫌そうに顔を歪めた。 「ほら。アンタは心得すぎてるでしょう。だから苦しみなんてない振りして、みんなの前で道化になるんだ」 そして彼女はそんなわたしを心底心配してくれる。 それと共にわたしの在り方を軽蔑してくれる。 どうしようもなく道化になって、どうしようもなくいい子になってしまったわたしを。 彼女がくるしみをまともに話しているのはわたしだけ。 わたしにとって、これ以上のことってない。 それでもその感情はなるべく顔に出さないことにする。 何も言えない方が無力っぽいかな、と少し打算して俯いてみる。 彼女にはもっとわたしを気にして欲しいから。 わたしは確かに、いい子で道化で弱いけれど卑怯者じゃない訳じゃない。 「誰もアンタの苦しみなんか、気づいてないよ」 彼女が吐き捨てるように言ったので、一番知っていて欲しいひとに苦しみは届いているからいいよ、とわたしは思う。 わたしと彼女が初めて知り合ったのは、学校の中じゃない。 SNSの、所謂病みアカウント同士の馴れ合い。 元々SNSは、わたしにとって何か言えない事を吐き出す場所だった。 けれど、SNSはいつしか人口が増えて、呟く場所から情報発信の場所へと姿を変えた。 現実世界と変わりなく、どこにでも誰でもがいる、すっかり生きている人間のにおいがする場所になってしまった。 それでも、自分らしく呟くユーザーは居るけれど、現実でも大衆に受け付けられない人間はSNSでも鼻つまみ者。誰も積極的に関わろうとしない。 自制心、セーフティ。 そんなものが欠けている人間は、尽くだめなんだという空気。 くるしみを話す時、特に助けて貰いたいわけじゃない。ただ単にSNSが昔は呟くだけの場所だったように、くるしみを呟きたいだけ。 それでもそれを見ている人、例えばあなた(と仮定するだれかさん) はどう思うだろう。 そんなことをわたしは知りえないけれど、良く思われないだろうな、と自分で想像すると途端に呟くことが億劫になる。 見ようによれば、自分の苦しみばかりひけらかして、他人を思いやれない人間で、コミュニケーションも成り立たない人間、のようにも見えるだろう。 そりゃそうだ。 そうなのかもしれない。 わたしもそこは自信がない。 だからこわい。 いつだって当たり前に、一方通行の苦しみはやがて行き場を無くしてしまう。 行き場の無い思いを抱えたまま、人間に相互理解は不能だと自分に言い聞かせる。 その通り。 でも少しくらい、どこかでほんのちょっと誰かに愛されたいと打算しても赦してもらえないだろうか。 だってわたし、感情の生きものだから。 そして感情の生きものは、次に諦観を学ぶ。 感情の生きものは、諦観の次に沈黙を学び、何も言えなくなったまま、生を終える。 人が自死した時に出てくるお決まりの文句、「あんなにいい人が、何故誰にも何も相談もせずに亡くなったのか分からない」という方々、その人はいい人で在りたかった訳でも無ければ、助けを求めていなかった訳でもないので、悪しからず。 苦しみは聞こうと思わなければ聞けない話だから気をつけて。 死んだあとに優しくしたって手遅れだよ。 次はあなたのくるしみの番かもしれませんよ。 わたしはあなた(と仮定するだれかさん)の耳元で囁く妄想をする。 こんな話を、わたしはSNS上で知り合った彼女としたのだった。 「ハーモニーみたいだと思わない?」 暑さが辛くて手で顔を扇ぎながら、唐突にわたしは思いついた。 わたしと彼女の好きな本。 子供っぽい理想だけど、憧れの本に自分が少しだけ近いと思えたら、なにが救われるのかは分からないけれど、なにかの救いになったりしないだろうか。 「伊藤先生の?」 「ほら、空気に押しつぶされて何も言えなくなっちゃうところ、とか?」 「あそこまで慈愛に押しつぶされてないよ。優しくならざるを得ない世の中だけれど、意識はあるし全然しあわせじゃない。私たちがこうしてこっそり苦しむのは、リアルにもネットにも単に私たちを観る人間が多いから」 観る人が多い。 確かにこの世で自分のことを話すには人間が、見物客が多すぎる。 わたしは学習発表会を頭の中で思い浮かべる。 わたしたちが発表するのはくるしみです。 それを見物客達が観ている。 手にはスマートフォン。 好き勝手に感想と考察を、各々が何らかの意味を持たせてSNS上に思い思いに文字が拡散されてゆく。 身震いがした。 わたしたちの言葉が誰かによって重さを付け加えられ、勝手に感想を付けられ、語ったくるしみは言葉としての形しか意味しか持たず、言葉であるが故に好き勝手に解釈されることが、恐ろしい。 恐ろしくてたまらない。 彼女は笑った。 SNSがあのやさしいユートピアであるはずがない。 そして、そんなSNS上での傷の舐め合いは、オフ会と称してリアルでも行われた。 街中のカラオケボックスで集った二人が同じ部活のメンバーだった、なんて出来すぎているけれど、これぐらいの幸運は許して欲しい。 今も幸せなんて高級品は滅多にお目にかかれないから。 そしてオフ会で出会った、既に顔見知りの彼女は、同じ学年のバレー部所属の問題児だった。 出会った当初、その問題児がSNSの彼女だったのだから、わたしは酷く驚いた。 _問題児。 何せ相当気性が荒い。 喧嘩早いとかそういう話ではない。彼女の使う言葉が死ぬとか殺すとか、そういう極端な、当たれば傷が付くだろう言葉を他人に平然と使うところが彼女が問題児たる所以だった。 更にわたしと彼女が話す内に彼女の事情が掴めてくると、どうやら彼女の家族は殺すだの死ぬだのの言葉が飛び交う、暴力だらけの家だった。 わたしの好きな彼女が妹に殺されかけるエピソード。 あれは、丁度わたしが彼女の部屋で漫画を読み話しながら遊んでいる時に起こった出来事だった。 彼女の家に遊びに行った時、彼女の妹が包丁を持って突っ込んでくるのを見た。 わたしは何も出来ずにただ呆然と、それをどこか酷く非現実的だと思いながら彼女の日常を眺めていた。 彼女は包丁を持つ妹を視認すると、読んでいる漫画を手放し妹の包丁を素早く利き手で叩き落として拾い上げて、部屋の隅に放り投げた。 そして妹の体に馬乗りになると、妹が動けなくなるまで殴る蹴るを繰り返した。 わたしは、それをうっとりと眺めていた。 手馴れている。 こんなことは、きっと日常茶飯事なんじゃないかと思うくらいの手際の良さ。 生きるためなら今ここで幼い家族を痛めつける事への躊躇の無さ。 母親と母親の恋人に殴られる事を受け入れて生きてきたわたしはこの日、初めて生きていいんだって思うことが出来た。 生きるために暴力を振るう彼女は、とっても綺麗だった。 辺りが暗くなってきていた。 それでも、もうどうしようもない時間になってしまったらわたしたちは帰るしかないことを思い出す。 夜になれば家に帰るしかない。 夕闇は段々と自分達の無力さを思い出させる。 もっとも家なんて外壁だけで家族なんてものは壊れきっていたけれど、わたしたちはそこにいるしか無かった。 きっと家に帰っても帰りたいという気持ちがおさまらないだろう。どこかに帰りたい。そう思いながら帰路に立つしかない。 わたしは手遅れになる前にスマートフォンを出してSNSを開く。彼女に宛ててリプライを送った。 @一緒に、死のう 彼女のスマートフォンが通知で震えた。 彼女はSNSを開いて画面を覗き、文面を読んで溜息をつく、不器用だなアンタは。そう言いたげだった。 だからわたしは苦笑する。 わたしは、彼女の溜息の雄弁さに甘えながら、近くの高層団地を指さした。 十階有れば充分だろう。 @ふたりで 「いいよ。…アンタ、指先は割と素直だよね」 画面に文字を指先で打ち込みながら、わたしは声を抑え込むようにして笑った。 @遺書は書く? 「書かない。誰も分かろうとしないし、助けようとしなかった連中は、何も分からないまま置いてかれるのが相応しい」 @死ぬ時は、お洒落な方がいいのかな? 「アンタはいっつも可愛いよ。もうひとりチビのセッターいるだろ?アイツ最近アンタにべったりで不安になるくらい」 @最後の晩餐は? 「今食べて落ちた時に、お腹を突き破って出てきたらやだ」 @本当に死にたかった? 「本当に死にたかった?」 「しゃべるのかよ」 彼女が笑って突っ込んだ。 でも、わたしは笑えなかった。 「しゃべるよ。だって死ぬのはわたしだけでいいじゃない」 だって彼女は強いから。 本当はこんな所で死ななくてもいいくらい彼女は強い。極限下の状態で実の幼い妹より自分の命を優先できる。彼女は強い人間だ。 殴られるのが嫌で死んでしまおうなんて考えるわたしとは違う。 「今は確実にそうだよ。アンタが逝くなら私も逝く」 「ごめんね。わたしに付き合わせちゃって」 わたしは泣いていた。 「なんで謝るんだよ」 「あなたは、わたしと死ぬことないでしょう…」 「私はアンタが好きだよ」 わたしはハッとして、彼女の顔を見る。 彼女の呆れたような表情、そして。 「いいんだよ。これで。私にこれ以上の結末なんかない」 彼女はそう言って泣きじゃくっているわたしの頭を撫でた。 「ごめんね、ごめんねぇ…」 わたしは泣いた。 訳も分からない言葉に出来ない言葉のまま、意味の無い母音を出したり出さなかったりして泣いた。 「いいよ。でもバカだなぁって思う。アンタ、ずっと辛い事をへらへら話してて、強いんだって勝手に思ってた。でも今、分かったよ。アンタはここまで来なきゃ泣けなかったんだ」 「ごめん、つらかった。つらかった。もうやだ。もう帰りたくないよ」 「うん」 「なにが、ヨシモトへ行けだ。しねくそやろう」 「同感だけど、滅茶苦茶に口悪いよ」 「それをあなたがいう!?」 わたしたちは今度こそ心から笑い合うことができたと思う。 わたしはどうやってくるしみを伝えたらいいかで悩んでいたし、苦しんではいたけれど、わたしはやっと彼女に自分の押し殺していたくるしみを話すことが出来たのだと思う。 だからといって問題は変わらない。 このまま帰ればわたしは殴られて、彼女はまた殺伐とした日常に戻って生きていかなければならない。 今、やっと彼女と手に入れた幸せを家の事情でぶち壊されるのは真っ平だった。 確かに追い詰められた末の自死ではあるかもしれない。 それでもわたしは幸せなうちに、幸せなまま、彼女とこの世に唾を吐いてサヨナラしてやりたかった。 わたしは幸せなまま彼女と一緒に終わることを、選択することが出来る。 だとすれば、わたしとしてもこれ以上の終わりはない。 夕方、太陽が消える前。 バレー部のユニフォームを着たわたしたちはお互いに抱きしめ合ったまま、可憐にジャンプした。 空中に涙が舞って、青春のようだった。
これ以上ない結末
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