SF短編 まず必要なのはチェーンソーだ。 勿論、ナタでも鎌でも刀でも包丁でもいいのだが、これを突きつけられたら終わるという恐怖がチェーンソーには充分備わっている。申し分ない闘争の音が朝から奏でられると出勤途中のサラリーマンたちの背筋が伸びる。 アメリカだったら銃で事足りるだろう。ショットガンやマシンガン、更には自走型芝刈り機なんかは乗れば荷物にならないし、出勤にも便利なため、そこそこ人気がある。メンテナンスなんかは面倒臭いらしいが、その辺はビジネスマンの嗜みとしてソーイングセットでボタンを付け直すように壊れてもすぐに直すことができる人がほとんどだ。 昔の話だ。 SNSが発達し、言葉の重さが徐々に失われていくなか、言葉に血肉がなくなり、言葉に命がなくなり、喋る人間をからかい交じりに冷笑したり、晒しあげたり、言われのない誹謗中傷が蔓延っていた時代だ。 言葉で人が傷つく、ということをあまり想像できない時代が長く続いた。 想像できたところで、多くの良心がその場に見合った行動を伴わせることができなかった時代が長く続いた。 ある日事件が起きた。 小学校一年生の女の子が強姦魔をチェーンソーでバラバラにしてしまったのである。 精神鑑定もしたわけだが女の子は全くの正気だった。 女の子曰く「私は自分の身を守った」 以上。 そして少女はで児童自立支援施設に送致され、27歳まで塀の中で暮らすことになった。 よくある話だ。 今回もよくある話のごとく、大議論された末に、明日も明後日も変わらないはずだった。 人々を不快にさせた風は過ぎ去るはずだった。 しかし次の日、一部の親御たちは包丁や鉈や鎌を愛娘に持たせた。 もはやここにある法律では愛する娘は守れないからである。 風は勢いを増す。 次に武装したのは男たちだ。 暴風が荒れ狂う。 朝出勤したら何かの手違いので小学生の女の子に細切れにされたらたまらない。 そして次は社会的弱者と呼ばれるひとたちだ。 自分たちが不当に傷つけられたらたまらない。 嵐だ。 ひどい嵐だ。 皆の癇癪が臨界点を越えて、法が敗北した瞬間だった。 積み上げられてきた良心の守り手が、余りにも脆弱で、守るに値しない法を作った時、初めて法は敗北する。 今の法では強姦魔から幼い娘を息子を守ることが出来ず、今の法では僅かにある大人たちに良心があることを証明できない。今の法では社会的弱者はより従順な奴隷になることでしか生きていくことができない。 それでも法がまもられていたのは、癇癪が起きると投与されるデパスを信じていたからだ。 湧き上がる不安と怒りを精神病として厄介者扱いすることで皆が平等に自己家畜化された自分を信じていたかったからだ。 しかし女の子が強姦魔をバラバラにしたこと以上に正しいことってある? 壊してよかったと思う。 壊れてよかったと思う。 今は皆が皆互いを気遣いあう。 でなければ相手の腰に提げてあるチェーンソーの音が鳴る。 自分の暴言がいつ遺言になるかもわからない。 勿論、気に食わないやつをすぐに切り捨てるなんてことはない。 それでは法があったころの時代と同じだ。 まずは決闘を申し込むこと。 「セクハラされた時にアンタが言ったさァ、他のとこでもそうだけど、世の中には色んな人間がいる論~。マジでなんの慰めにもなんないし、それは多様性じゃねえだろ平等に誰かに嫌なことしたら怒られろよ」 これは上司に向けてである。 どこにでも色んな人がいるのだからある程度は我慢しろという言葉に対してである。 なぜ私が嫌な思いをしたことに対して我慢しなければならないのか、私は命をかけて主張する。 「話し合いましょう金曜日に面談を…」 ここであわてて上司がこんなことを言っても気にする必要はない。 相手もまた腰に武器を下げていれば、申し込まれたと同時に決闘は始まることになっている。 自社のルールだ。 今必要なのは金曜日の面談では無い。 決闘だ。 チェーンソーだ。 命をかけたブリーフィングだ。 私の言葉に重さがたりなかったとしたら、後は流される血で重さを感じて欲しい。 相手もチェーンソーを構えると私たちは互いにそれを向けて言葉を届けるために向かい合った。 野蛮だと誰かが言った。 野蛮さを飼い慣らし社会に適用するよう促したのが精神病の始まりだとわたしはさけんだ。 時代の逆行だと誰かがいった。 退化から?進化から? 皆尊い命だ。 もちろん私も。 そしてあなたも。 だから私たちは腰から武器をぶら下げている。 私たちは言葉が重さを感じられなかったときよりずっと、人間を怒らせることがどういうことなのかを分かっている。 平和は尊い。 そうなのかもしれない。 でもわたしよりもあなたよりも尊い? わたしを犠牲にしてまで、あなたを犠牲にしてまでも尊いものがあるのか。 私たちはチェーンソーを振り上げながら叫び合う。 私たちが分かり合えないことを確認する。 私たちが分かり合うことはないが、相手がまた人間であることを流れてくる血のあたたかさから感じる。 あなたの言葉が文字通り血潮となって私にふりそそぐ。 私は耳を傾ける。 あなたは人を殺す力を持ちながら、私たちは殺し合いながらも何故言葉をかけ続けるのか。 わたしたちは殺し合いながら、主張が違いながら、何故耳を傾けるのか。 私たちは今、なんの例えでもなく、命をかけあう同志だからである。 「ごめん!いいすぎた!」 私は振り回していたチェーンソーを下に降ろして、スイッチを切った。 もう私にあのイライラとした鬱屈な殺意は消え去っていた。 私の主張はどうあれ、わたしを苦しめていた嵐は暴れきってどこかに去っていった。 上司は、チェーンソーを下ろすかどうかは分からない。あちらもあちらで巻き込まれたのだ。 おさまらないならこちらも付き合うつもりでいる。 お互いの嵐が止むまではチェーンソーの音は鳴り響くだろう。 上司もチェーンソーをおろした。 チェーンソーの音が止む。 静寂。 「金曜日にまた話し合うことにするわ」 「分かりました」 「その時はチェーンソーを忘れないで」 私は思わず微笑んでしまった。 後二分で始業時刻だ。 「なんとか間に合いましたね」 私はさっきまで殺しあっていた上司に声をかける。 驚くほどやさしい声が出た。 「まあね、でも本当にこれって作業効率をあげてるのかしら」 「じゃあ金曜日の話し合いをやめますか」 「ばかいわないで。仕事じゃなくて、これはわたしの魂の問題よ」 出社戦争 完
出社戦争
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