「遅かったですね?」
遊び疲れて眠るリルアを背負い、家に帰ればまずそれだ。
「まだ日付変わってないだろ」
「何を言うのです、リルアは可愛いのですから妙な輩に襲われたら困るでしょう?」
ふくれっつらの仁王立ちで俺を見上げ、こちらは靴すら脱いでいないのにしがみついてくる。昼間の出来事がなければ蹴り飛ばしていただろうが、少しくらいなら仕方ないか、と頭を撫でてやった。
「……どういった心境の変化ですか?」
「お前なあ……」
あれだけの話をされた後で、態度を改めない者の方が少ないだろうにこの面食らった表情。もしかして俺はこの兄妹に、よほど冷たいやつとでも思われているのだろうか。
「俺もまだまだ馬鹿だからさ、言ってもらえなきゃ何も分からねえよ。それだってのにお前らは、俺には重要なことを何も言わないまま事を進めるもんだから……俺だってそりゃ反発したくなるさ。
まあ、たかだか顔見知り程度の俺に機密事項を話せるわけもなかったのは知ってる。けど、頼ってくれれば俺だって応えるための努力はするのに、お前らは二人とも抱え込みすぎなんだよ」
柄にもないセリフに襟足がむず痒くなるものの、言い出したなら告げきるべきかと眉を下げる。未完成の傑作より完成した駄作、拙いながらも俺の言葉で、この兄妹を少しでも楽にできたら──なんて、少々調子に乗り過ぎただろうか。
「アクト……」
「なんだよ」
「それは私たち兄妹が、あなたに頼ってもいいと言っているのですか」
「……それ以外にどう解釈しろと?」
まったくもって鈍感な……いや、臆病な兄妹だ。背中のリルアがずり落ちないように背負い直して、俺は再びフェリクスの頭を撫でる。
「今はとんだ足手まといだし、俺は伝説級のお前らと違って、元より単なる『ノベリスト』だ。けどお前ら二人にだって、埋められない隙間の一つや二つはあるだろ?
俺たちはみんな未完成なんだから、ぴったりそれらを埋めきれるやつなんていない。かくいうお前もそうだろフェリクス、もちろん俺もリルアもだ。
……お前らはそれを痛いほど理解してる上で、だからこそ俺を守ろうとしてくれてる。それくらい俺にだって分かってるさ」
「なら──」
「けどな? さすがに最初から戦力外として見られてるのは嫌だ。
半ば日常に組み込まれていたものを突然制限されて、何も知らないまま穏やかに過ごせ、拒否権はない──なんて言われたら、はいはい分かりましたって頷く方が難しいぞ」
「それ、は……」
フェリクスの視線が宙を泳ぐ。別に責めているわけでも落ち込んでほしいわけでもないのだが、ここはしっかり言っておかなければ後々に響くだろう。
「俺がそこにいる以外何もできない能無しに見えてるなら、それでもいいから俺に寄りかかってほしい。支えるくらいならきっとできるだろうし、最初はそういう些細なことでいいんだ。
それともあれか、『俺もお前らが大事なんだ、勝手に壊れられちゃ困る』ってわざわざ言われなきゃ分からないか?」
口調がキツくならぬよう、彼の頭を優しく撫でる手は止めない。しかしフェリクスが何か、決心したように口を開きかけたとき──
「なあに……? オムライスの逆襲……ボクたちにケチャップの報復を……?」
もにょもにょと聞こえたのは間違いなく、リルアの寝言だけだった。
「……おいおい……」
額を押さえる俺とは違い、丸まって震えている辺りフェリクスにはうけたらしい。しばらく肩を震わせていたが、我慢できないと言ったように声を上げて笑い出した。
「……っひー、ひー……リルア……さすがは私の妹ですね……!」
「そこまでか?」
俺がニブいのかフェリクスのツボが浅いのか、涙すら浮かべる彼に苦笑ばかりがこぼれる。
「久々にここまで笑いました……」
「そうかー」
「……ああ、もしかしたら」
目尻の涙をぬぐい取り、フェリクスは柔らかな笑みを浮かべる。俺の肩越しにリルアを見つめ、「分かったような気がします」なんて。
「笑わなくなっていたのはリルアではなく、私の方だったのかもしれません」
「というと?」
「私が今まで浮かべていたのは、あくまで形だけというか……まあ、ちゃんと楽しかったり嬉しかったりでそうしたものもありますが……心の底からの笑みではありませんでした。
リルアは素直ですからね、騒がしくこそしませんがいつも全力です。そんな彼女が表面だけの私に笑い返せなくなるのは必然か運命か……おそらくそのような理由からでしょう」
「……ふうん?」
背中のこいつがもしそのようなことを考えていても、他人の俺には分からない。それはフェリクスも同じことだろうに、何を分かったような口をきいているのか。
「な、っ何をするのですアクト、リルアのことは丁重に扱ってください!」
試しにリルアをぽい、とフェリクスに放ってみれば、面白いほど慌てて受け止めた。
「リルアが起きたらどうするのですか!」
「そっちかい」
「当然です、私がリルアを落とすなど絶対にありえません……!」
リルアの瞼がまだ閉じられていることに安堵した様子で、彼女の頭を撫でるフェリクス。だが優しげに細められた目や上がる口角、愛しくてたまらないといった様子の手つきは、彼の言う「表面だけの」ものには到底思えなかった。
「俺からすれば、お前の感情がそんな薄っぺらいものには見えないんだが?」
「……きっと見かけ倒しですよ。私はまだ、リルアの前では仮面を付けたがっている」
さらさらの髪をすくい落として、フェリクスはリルアを抱え上げた。
「今日のところは寝かせてきます。極力すぐに戻りますから、そこの部屋で待っていてください」
「あ、ああ」
目で示された部屋に向かって、歩き出してからふと振り返る。階段を上っていくフェリクスの背中がまだ小さいことに、意味もなく胸を痛めている自分がいた。
「──お待たせしました」
そのせい、だろうか。
応接室らしき部屋で一人、高そうなソファに身を沈めること数分。フェリクスが部屋に現れ、俺の向かい側に腰かけた途端声がこぼれていた。
「……ごめんな」
「今度はあなたがしょぼくれる番ですか。
ですが生憎、私はあなたが謝らなければいけないことに心当たりがありません」
「そ、りゃあ色々……俺が無理したこととか、あとは……」
言葉に詰まる俺を見て、フェリクスは深い溜め息一つ。泳ぐ視線も絡まる思考も、それをどうにかしようと思うほどエスカレートしていくから手の打ちようがない。
「心当たりがあまりないことで謝るのはやめた方がいいですよ、『とりあえず謝っておけばどうにかなると思っている』と思われますから」
「うっ……」
「ですがまあ、今はそれが図星だろうとそうでなかろうと関係ありませんね。どうせ私たちは別個体ですし、私に害はありません」
「な、んか今に限ってトゲだらけだな……?」
彼は事実を口にしているだけのはずなのに、なぜこんなにも突き刺さるのか。視線を合わせることははばかられたため、少し下がってテーブルの上、フェリクスの手元に目をやる。
「……リルアに告白されたのでしょう?」
「ごふッ」
「そうですか、少なくともそちらは図星ですね?」
咳きこむ俺にまた息をつき、両手を組んだフェリクスはまっすぐに俺を見据える。
「なん、で、知って……」
「あなたたちの様子を見ていればすぐに分かりますよ。それも今日のようなイベントに二人で出かけるなんて、どう考えてもそのつもりでしょうに。
……ですがまさか、気付いていなかったのですか? リルアがあれだけアプローチしていたのに?」
おい待て頭を抱えるな、そうしたいのはむしろ俺だ。
仕方がないので俺も頭を抱え、しばし二人でうずくまる。やがてのろのろと顔を上げたフェリクスは、疲れきった表情で髪をかき上げた。
「それで……断ってなどいませんよね、と言いたいのはやまやまですが。
こればかりはあなたの自由です、彼女の想いを踏み荒らすようなことをしなければ私は何も言いません」
「……どういう風の吹き回しだ? お前のことだからてっきり、死んででも受け入れろとか言うと思ってたのに」
「私だってそこまで鬼ではありませんよ、それにこれはリルアのためでもあります。
いくら彼女があなたのことを好いていても、あなたがリルアを心から愛せないのなら無意味だとは思いませんか?
あくまでもし、もしそうなれば結局、二人の間には何をしても縮まらない距離が生まれます。それに自分を好いていない者と共に過ごしても、彼女が空しさを覚えるばかりなのは目に見えているでしょう?
だから私はとやかく口を出すつもりはありません。もちろんリルアが泣くようなことになれば、口だけでなく手足が出ますけどね」
口調こそ冗談めいているが、その目は一切笑っていない。思わず後ずさりそうになった俺をなお、まっすぐに見て硬い声で紡ぐ。
「……あなたは、リルアのことをどう思っているのですか?」
「どう、って」
そう言われても何も分からない。最初は苦手で面倒で、できれば近寄りたくもない存在だったことは確かなのに──どうして今、俺はその事実を口にすることをためらっている?
「分から、ない」
意識せぬままぽつりとこぼし、俺は両手で顔を覆った。
「俺があいつを避けてた一番の理由は、あいつの姿を理想と見てしまうことで……絶対的なものだったマスターへの気持ちが揺らいでしまわないか、不安だった、から」
ずっと前から気付いてはいたのだ、俺が頑なに認めようとしなかっただけで。
「嫌だったんだ、他の誰かを愛することによってマスターを過去の存在にするのは。
けどもっと嫌だったのは、リルアを愛することによって過去の自分を否定してしまうことだ。こんなに焦がれて求め続けたのに、そう簡単に目移りしてしまったら俺の存在が、想いが、涙が薄っぺらいものに変わってしまう気がして。
おかしいよな、こんなんじゃ俺は本当にマスターを愛していたのか分からない。結局あのひとは俺のちっぽけな自尊心を守るための存在になって、また会えることがあれば今までの自分が報われる気がした、それだけ。
もちろん最初は純粋に好きだったさ。でもいつの間にか俺はその過去にしがみついて、自分の未来を見限るようになってた……!」
「……『立ち止まることが悪いとは言いません。ですがいつまでもそこに留まっていては、大切な誰かの背中ばかりを見つめることになります』──
以前私がそう言ったとき、あなたは私が何を言いたいのか分からない、と言いましたよね」
長雨のような声だった。
「あなたが答えにたどり着けず、未だ迷路をさまよっているのなら──私からもう少しだけ、言いたいことがあるのです。
長い間立ち止まっていたあなたが今、リルアの影響で再び歩み始めようとしている。そう仮定します。
ですが進もうとする心に対し、あなたは長期の停止で体の機能が落ちています。もちろん体と心のバランスは崩れ、すぐ近くで止まったままの誰かに躓いてしまったとして。
体が重くて進みたくない、と思ってしまったとき、前進しようとしていた心とのせめぎ合いが起こるでしょう」
言いながら、フェリクスはどこからか金の髪飾りを取り出す。
「……要するに、です。
あなたが私の部屋に来たとき、崩れ落ちたのは体の不調からではなく……停滞によどむあの部屋に、心が呑み込まれそうになったからでしょう」
よく見ればその髪飾りは、彼の部屋にそっと置かれていたアクセサリーの一つだった。
「もう少し、簡潔に言うなら──」
彼の小さな掌の上、きらめくそれが刹那火を噴き。
「あの部屋に置かれていたアクセサリーは全て、私がアイラという女性に贈ったものでした」
跡形もなく、燃え尽きてしまった。
「私は存外未練がましいのだと、気付いたのはつい最近です。一度は彼女のものとなり、今は誰のものでもなくなったそれらをまだ、部屋に並べるほどには引きずっていた。
……彼女の髪が好きでした。金の髪飾りがきっと映える、つややかに長く紅い髪」
そしてまた、彼はどこからかネックレスを取り出す。
「華奢な首筋にきっと似合うこれも」
燃え落ちるサファイアがまるで涙のようだ、と思った。
「白く細い指を飾るはずだった、これも──」
「やめろ……ッ!」
あまりにも、だってあまりにも残酷すぎた。
過ぎた感情は表情をも消し去るのだと、知ったときにはもう遅い。叫んで叩いたテーブルの上、置かれていた花瓶がごとり、と倒れる。
「馬鹿なこと言ってるんじゃねえ、これ以上燃やすんじゃねえ!
まだ目覚める可能性が残ってる、って言ってたのはお前だろフェリクス! なんでお前がその可能性を一番に諦めるんだよ、お前は俺と違ってずっと、揺らぐことなくアイラさんを想ってるんだろ!?」
花瓶の中のドライフラワーが、倒れた衝撃で花弁を手放したように抗えない眠りだったのだろう。失血死した体にいくら輸血しようと、魂が戻らないことと原理は同じだ、とフェリクスは言った。
「俺はマスターが倒れて、息をしなくなった瞬間を見たから……あのひとがもういないことを知ってるから、こんなことが言えるんだとは思う!
だがな、誰よりもアイラさんのことを愛してるのはお前なんじゃないのか!? 前にも言ったがもう一度言うぞ、なんで大事な想い人であり『自分』のことを、お前は大事にできないんだよ!?」
自分のことを一番愛せるのは「自分」自身だ。そうでもなければ生きていくことなんて到底できないだろう。
だが死ぬことのできぬ存在故に、彼はその事実を知らずに生きてきたのではないか。ただでさえ思うようになどならない恋心を、彼は行き過ぎた自己愛と諦めていたのだとしたら。
それこそ「死にたく」なるほどに、この世界は悲しいものになってしまうじゃないか。
「……馬鹿ですね」
「まったくだ」
「こんな顔、リルアには見せられないじゃないですか」
「一晩もすりゃ元通りだろうよ」
「何を他人事のように」
「だって、なあ?
実際他人事だろ、俺とは別個体のお前からすれば」
笑おうとして嗚咽が漏れた。握り締めた手の甲に数滴、生ぬるい水が落ちてくる。
「どうしてあなたが泣くのです」
「悪いか」
「……いいえ。ですが代わりに、一つだけ質問させてください」
燃えるはずだった指輪を握り込んで、ようやく前を向いた深紅の瞳。時に狂気にも例えられるその紅は、今この場所では一点の曇りなく俺を映す。
「あなたがマスターに惹かれた理由を、私に教えてはくれませんか」
ノベリスト・シンドローム【9】
静海
小説を書くこととゲームで遊ぶことが趣味です。ファンタジーと悲恋と、人の姿をした人ではないものが好き。 ノベルゲームやイラスト、簡単な動画作成など色々やってきました。小説やゲームについての記事を書いていこうと思います。
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