20年以上前、伯父から聞いていた話をついこないだ同僚のお姉さんが話していて
戦争の話はしなければいけないのだと、風化させてはいけないのだと、改めて思った。
伯父は今96歳だ
戦時中将校になる夢を追って通信兵になった。
外国の通信網を傍受して解析する。
その時、負けるなって、分かったんだって。
戦争一色の日本に対して、のどかなラジオが流れる余裕のあるアメリカ。
それから伯父から聞いたのは、大東亜共栄圏の話と中国の話
日本が行った南京大虐殺で死亡した民間の中国人の数を30万人以上と中国は主張しているが
もともと南京に30万人も住んでいなかった事実がある。
南京に移り住んでいた日本人も多く死亡した日本人も多い。
ゲリラ戦法を用いた中国は自分たちで民間人を巻き添えにしていたし、その実情は定かではない。
*ゲリラ戦とは民間人に紛れて神出鬼没で爆弾を投げたりする戦法のこと
それから大東亜共栄圏。日本が主導となってヨーロッパ諸国による植民地化から逃れようと
アジアで結束しようというものだ。一つの共同体になろう、そう主張して日本語教育などが行われた。
日本はアジア諸国を守ろうとしていたんだ。そういう話と、それを、大東亜共栄圏をこじつけに植民地化しようとしたんだと主張をする説がある.
今の中国が一帯一路を掲げているが当国の主張と周囲の見る目は当時と似たようなものだ。
父の話をしようか
父は満州で生まれた
今の中国の東北部に開拓民として移り住んだ日本人が155万人いたという。
父の叔父や親族が満州鉄道の経営に携わっていた関係でお手伝いさんが何十人もいるレンガ造りの洋館で裕福な暮らしをしていたという
ところが、戦争が終わって中国人が暴挙として押し寄せた。
納屋の石炭小屋へ隠れ、石炭を被って息を潜ませた
そのとき父は二歳で恐ろしさに泣いてしまった
叔母は父の口をぎゅっと手で塞ぎ父は息が出来ず、仮死状態になった。
中国人のお手伝いさんがここにはいないと言ってくれて逃げ延びることが出来たという
父は辛うじて息を吹き返したが、
逃げ延びる途中ロシア兵に連れていかれる日本人女性が多くいた
綺麗だった叔母は家畜の糞を体中に塗って2歳の父とその兄を連れ昼間は空き家に身を潜ませ夜中、闇夜に紛れて、三日三晩走り続けて日本への帰還船の港までたどり着いた
父のリュックに帰還船に乗るための身分証と切符が入っていたから乗れたけれど、乗れずに置き去りにされた日本人も多くいたという
逃げ延びる中で中国に置いていかれた日本人の子供たちは中国残留孤児と呼ばれのちに帰還事業が行われた。
ただ幼くて足が遅いからと置き去りにされただけでなく、
逃げる過程で親を亡くしたり、仲の良かった中国人に引き取られたり、
ロシア兵に親を連れ去られた子もいたのだろう
父の両親は戦時中、2歳の父と7歳の兄を残し、結核で亡くなった
まだ26歳と32歳だった。
戦争に負けることを知らず死ねたのは幸せだったろうと父は言う
私は年老いた両親から生まれたことを誇りに思っている
ただ彼らの記憶が消えてしまわないようにと願う
読んでくれてありがとう。
ここに彼らがいた証を刻む。