
豊臣秀吉に抗った最後の戦国武将
岩手・九戸政実(くのへまさざね)
ライナス
はじめに
皆さんこんにちは。ライナスです。今回は私の好きな東北の戦国武将をご紹介していこうと思います。その中で今回は岩手県の戦国武将である九戸政実(くのへまさざね)について紹介していきたいと思います。
是非最後までご覧ください。
東北全土に名を知られた猛将
九戸政実は天文5(1536)年に南部家(なんぶけ)の家臣である九戸信仲(くのへのぶなか)の嫡男として、現在の岩手県九戸郡九戸村に誕生しました。幼い頃から才気煥発で、とりわけ武勇に関して人並み外れた才能を発揮していたそうです。また九戸氏(くのへし)は表向きは南部家の家臣という扱いでしたが、実際は南部宗家と同格の立場であったと言われております。また信仲の子供たちは政実を筆頭に武勇に長じたものが多く、様々な勢力に養子として信仲が与えて自らの勢力を拡大する政策が功を奏して、財力や軍事力に関しては南部宗家をはるかに凌いでいたと言います。特に九戸氏の軍事集団は九戸党(くのへとう)と呼ばれ、岩手のみならず東北全土にその武勇の名をとどろかせていました。また政実自身も生涯で大小40戦程の戦闘に参加して、かすり傷一つないほどの並々ならぬ武功を発揮し、南部家の領主の南部晴政(なんぶはるまさ)から絶大な信頼を得ており、その実力から政実自身がもはや南部家に仕える立場ではなく、ある種の独立した大名のような状態であったのではないかと一部の歴史研究家からは言われております。
九戸氏の出自について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%B0%8F
https://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/topics/topics_view.cgi?mode=details&code_no=64&start=
宗家乗っ取りの野心があった?
このような経緯があり、政実自身が信仲から九戸氏の家督を相続してからは、政実は南部宗家のためというよりは九戸氏や九戸党のための勢力や権益の拡大を図るための行動をとることを徐々に鮮明にしていきました。実際に戦闘に参加した際にも半ば押しかけのように参戦することが多く、九戸氏や九戸党に採って利益がないと判断された戦闘には病気を理由に参戦を拒否するなど、次第に南部宗家に反発する態度をとるようになっていきました。しかしそれでも南部宗家からは何らかの形で政実や九戸党が処分や処罰を受けることはありませんでした。
なぜ処分や処罰を受けなかったかというと、元々南部家は家中の取りまとめに苦労してきた経緯があり、政実や九戸党に思い切った対策が取れなかったこと、九戸氏や九戸党の財力と武力の高さから南部宗家が「戦っても負けるのではないか」と思っていたこと、また九戸党と争うことによって家中が二分され、南部家自体の勢力が弱体化して周辺勢力に攻め込まれるのではないかと南部宗家が危惧していたと思われます。
また政実自身もそのような南部宗家の意図を見抜いており、「喧嘩をするならやってみろ」といった心の面持ちだったのではないでしょうか。そのような政実の態度から南部宗家は「政実が野心を抱いたら、いつか南部家は政実と九戸党に乗っ取られるのではないか」という恐れを抱くようになっていきました。
後継者争いの敗北と、悪化する
南部宗家と信直との確執
そのような政実と九戸党ですが、天正10(1582)年に南部家の領主である晴政が亡くなると、周囲ににわかに暗雲が漂うようになりました。晴政の死後の南部家の家督は長男の晴継(はるつぐ)が相続し、政実と九戸党が後見人となりましたが、その晴継が晴政の葬儀の終了後に急死するという事件が起こってしまいました。(暗殺とも病死ともいわれていますが、真相は明らかになっていません。)この過程で南部宗家が南部家の重臣であった石川高信(いしかわたかのぶ)の嫡男で、かつて晴政の長女の婿養子で、晴継の出生前に後継者に任命していた田子信直(たつこのぶなお)を晴政の後継者として擁立しようとする動きを見せたのです。(※補足しておきますが、晴継は晴政が晩年になって生まれた子であり、晴政の母親は側室でさらに身分も低かったため、晴政が信直に家督を譲るように迫っても、晴継は南部家の後継者たり得ないと南部家の家中が思っていたこともあり、信直の家中は固持する姿勢を示していましたが、晴政が政実と九戸党を晴継の後見人にしたことによって、家中が二分することを恐れた信直が平和裏に家督を譲渡したという経緯があったのです。)この行為に政実と九戸党は激怒し、直ちに晴政の次女をもらい受けていた弟の九戸実親(くのへさねちか)を擁立し、
南部晴継 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%99%B4%E7%B6%99
ここに南部家の後継者争いが勃発するのです。
当初は互角と思われていたのですが、南部家の重臣であった北信愛(きたのぶちか)が信直の後見となり、さらに参謀として力量を発揮して、南部家中で最大の勢力であった八戸氏の八戸政栄(はちのへまさひで)の支持を取り付けるなど多数派工作を展開し、ついに領主を決める合議で信直の家督相続を成功に導きました。なお、このときに信直が本拠に入城する際に武装・抜刀した信愛の家臣団を護衛に付けての入城だったため、この家督相続が平和裏のものではなく、半ばクーデターのようなものであったことがうかがえます。
この結果に政実と九戸党は憤慨しました。「そもそも信直は一重臣の子にすぎず、宗家と同じ血を引いた実親を差し置いて己が南部の領主・総領を名乗るなど言語道断、笑止千万も甚だしい。」その上で晴継の急死は信直一派の手による暗殺である、と断定しました。「先々代に一時は弓を引き、先代を汚い手段で殺めた信直のいうことなどどうして聞くことができようか。」こうして政実と九戸党は信直や南部宗家の指示に従うのをやめ、独立勢力のように行動する決意を決めたのです。それと同時に政実と信直、また南部宗家との関係は修復が利かなくなるほどに悪化していくことになるのです。
負のスパイラルに陥る、そして耳元まで
迫りくる天下統一の足音
政実は晴継の葬儀の終了から間もなく、信直と宗家に独断で兵力を集め、同じ岩手の和賀郡に「紛争の平定」と称して攻め込み、完勝して敵の小野寺氏(おのでらし)を本家の秋田に追いやり、また岩手県南及び宮城県北を領有していた葛西氏(かさいし)の領地にもやはり独断で侵攻し、領主の葛西晴信(かさいはるのぶ)の右腕と称された寺崎吉次(てらさきよしつぐ)を討ち取るという武功を上げました。信直や南部宗家がいくら政実に本拠への出向を促しても、「戦で病になった」と言ってそれを拒否したり、「領民を守るために戦を起こした。本来それをすべきは領主たるそなたの役目だ。」と信直に言い放つなど、信直や南部宗家の意向をことごとくはねつける態度をとっていきました。
このような政実と九戸党の態度に信直や南部宗家が黙っているはずもなく、腹心の北信愛を中心として、政実と九戸党を潰すための謀略や工作を行うようになっていきました。その一環として岩手に勢力を誇っていた奥州管領(おうしゅうかんれい)である斯波氏(しばし)に婿入りしていた政実の弟の高田吉兵衛(たかだきちべえ)を寝返らせることに成功し、その勢いで斯波家の領内に侵攻し、斯波氏を滅ぼすなど、政実と九戸党に対して事を構える姿勢を見せるようになっていきました。
高田吉兵衛(中野康実)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%BA%B7%E5%AE%9F
この信愛の工作に対して政実と九戸党は何も有効な対策を打つことができずに、南部家中だけでなく、周囲の勢力からも孤立する結果となっていきました。この時の政実と九戸党の人々の心の胸中はどのようなものだったのでしょうか。察するに余りあるものがあります。
おりしもこの頃は羽柴秀吉(はしばひでよし)が大きく力を伸ばし、天下統一の野望を見せ始めていた頃。小田原の北条氏(ほうじょうし)征伐のため全国の大名に招集をかけ、その要請に従わなかった奥州の大名を改易し、領地を没収したり、領地の石高の調査のためという名目で太閤検地(たいこうけんち)を行っていました。このようにして、政実と九戸党は南部家と秀吉という二つの勢力に翻弄されることになっていったのです。
奥州一揆と、それに伴って起こる奥羽の
民衆の政実と九戸党の挙兵への期待
しかし、この奥州で行われた太閤検地は、相次ぐ戦乱であえぎ苦しんでいた奥州の民衆の心に火をつける結果となってしまいました。天正18(1590)年に新しく葛西・大崎の領地に赴任した木村吉清(きむらよしきよ)は強引で悪辣な検地を行い、それに激怒した民衆に一揆を大規模に起こされ、本拠に引きこもって周辺大名に救援要請を出す事態に陥ってしまいました。
木村吉清 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%90%89%E6%B8%85
ほどなくして一揆は鎮圧されましたが、小田原攻めに参陣せず改易された大名、領主の地であちこちに一揆が勃発していきました。南部家も隣国の領主だった稗貫氏(ひえぬきし)の領地で一揆が起こりましたが、政実と九戸党が一揆を扇動したのではないかとの疑いを持ち、参戦を求めるようなことはしませんでした。時間とともに一揆勢の勢いが先細りになっていき、九戸や奥羽の民衆は、南部家と一定の距離を取り、勢力を温存し、東北全土にその武名を知られた政実と九戸党の挙兵と蜂起を徐々に期待するようになっていきました。
「民の心に応えよう。」
政実、ついに南部家に謀反を翻す
政実は、当初は奥州の一揆について静観の立場をとっていましたが、九戸の領民や奥羽の民の声や心意気に触れて、徐々に心を動かされていきました。「私は今まで己や九戸党のためばかりに戦ってきた。にも関わらず我が領内の民は文句ひとつも言わずわれらに従ってくれ、共に戦ってくれた。その民が此度は奥羽の民と共に立ち上がるよう願っている。私とて武士の端くれ。此度立ち上がらず、命を落とせば七生浮かばれぬ。よし。民の心に応えよう。民と共に立ち上がろう。そのための我が命ではないか。斯様な時のための九戸党ではないのか。たとえこの戦で命を落としたとしても、民のために戦ったと有らば武士の本命である。武士の心を喪った信直や信愛、南部宗家に一太刀入れて一泡吹かせてやる。」
こうして政実は天正19(1591)年1月に南部家の正月参賀の出席を拒絶し、その場に出席させた従者に南部家との絶縁を言い渡させ、公然と
信直と南部宗家に叛逆し、3月に自らを「正式で正当な『南部家の当主』である」と名乗り、「先代当主の晴継を暗殺して南部を乗っ取った信直を打倒する」という大義名分を掲げて決起、挙兵しました。
連戦連勝の政実に対して、豊臣秀吉の
6万5千の大軍が押し寄せる
これに対し、挙兵した当初は鷹揚に構えていた信直や信愛でしたが、いざ戦うと百戦錬磨の九戸党に全く手も足も出ず、またこれまでに信直の統治に不満を持っていた七戸家国(しちのへいえくに)や櫛引清長(くしびききよなが)、姉帯兼政(あねたいかねまさ)などの有力な家臣たちが政実に味方するようになってからは本拠を捨てて少数の手勢で南部領内を逃げ回る事態となってしまいました。このような事態に信直や信愛は信直の嫡男の利直(としなお)を秀吉のもとへ派遣して、豊臣家への臣従を誓い、その上で政実征伐のための軍勢を派遣するように要請しました。秀吉はその要請に応え、蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将にして、浅野長政(あさのながまさ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)、徳川家から参戦してきた井伊直政(いいなおまさ)を中核として、さらに蝦夷地(えぞち)から松前慶広(まつまえよしひろ)、青森から津軽為信(つがるためのぶ)、秋田から秋田実季(あきたさねすえ)、小野寺義道(おのでらよしみち)、仁賀保氏(にかほし)を筆頭とした秋田の豪族集団の由利十二頭(ゆりじゅうにとう)、そして岩手から南部信直(なんぶのぶなお)が参戦して、その総数は65,000になるほどの大軍でした。
蒲生氏郷 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7
一方、政実は自身の兵に七戸家国、櫛引清長、円子光種(まるこみつたね)らの兵力が加わった
約5,000人の兵で政実の本拠である岩手県二戸市の九戸城に立て籠もりました。
(後編に続く)https://no-value.jp/wp-admin/post.php?post=109217&action=edit