私が好きな東北の戦国武将(後編) 

豊臣秀吉に抗った最後の戦国武将

岩手・九戸政実(くのへまさざね)

ライナス

連日の攻撃にもなんのその!城兵と武将が一致結束して見事に耐えきる

 こうして豊臣軍は九戸城を取り囲みましたが、政実が築いた九戸城は三方を川に囲まれた高台にある「天然の要害」でした。さらに城にも様々な仕掛けが施されており、取り囲んだ武将たちは皆「大名格の城。一部将の城の規模にあらず。」と声を上げるほどでした。しかし、軍勢の多さから、「城を取り囲めば直ぐに降伏してくるだろう。」と楽観的な見方をしていました。先ずは使者を使って降伏を促しますが、「聞くまでもない!」城内の全員から一笑に付されて拒否されます。

 「奥羽の田舎武者風情が、われらを愚弄するか!」この行為に怒り心頭に達した豊臣勢は城に夜襲をかけようとしたのですが、九戸党は事前に攻め手の動きを察知しており、誘い出しをかけて相手を油断させて大手門へ誘導して、逆に奇襲攻撃をかける戦法で豊臣勢を撃退しました。これに驚いた豊臣勢は明朝に川の浅瀬を秋田勢に強引に渡らせる戦法で城に攻め込もうとしましたが、これも事前に城側に察知され、誘い出したうえで迎撃して追い返しました。

 「勝ちすぎている。なにゆえ豊臣勢は定法(じょうほう)の策をとらず、65,000の兵を持ちながら奇策ばかりに走るのか。」政実は首をひねります。弟の実親がすかさずこう切り返します。「まことにもって奇法ばかり。しかも攻めているのは信直を除いた奥州勢ばかりにございます。」皆が顔を見合わせました。実親は間髪を入れずこう言います。「ぎりぎりまで奥州のことは奥州の者達に任せておけ、ということなのでは?それと、巷の噂通りならば、朝鮮や唐に攻め込むために、自らの手勢を犠牲にはしたくないのでしょう。」政実は呆れ返りました。「自ら攻め込んでおきながら、命のやり取りは奥州勢任せとは。」政実の言葉に多くの武将や城兵が納得しました。「面白き策がございます。ただこの策は前九年の役(ぜんくねんのえき)で、安倍宗任(あべのむねとう)が仕掛けた策にございますが。」実親から策の内容と次第を聞いた政実と武将たちは納得し、やがて苦笑します。「我らは源氏の末裔。そのわれらが、源氏と刃を交えた安倍の策を使うとは。まことに面白き話ではないか。やろう。」

 政実もこう語ります。「我らは源氏の嫡流として戦うのみに非ず。奥州の地に生きとし生ける『新しき蝦夷』として戦うのだ。」と。

 その夜、実親達は城の一角の水堀に大量のもみ殻を撒き、その場所を大地と見せかけ、蒲生氏郷勢の本陣に抜刀隊で奇襲を仕掛け、怒り心頭の蒲生勢を挑発しながら堀に誘導し、堀だと気付かずに抜刀隊を追いかけた蒲生勢の兵が堀に落ちたところを城内から弓矢や鉄砲で狙い撃ち、蒲生勢に約650人の死傷者を与える大戦果を挙げたのでした。

6万5千人の総攻撃にも全く怯まず!

全員が一致結束して退ける!

 このようにして損害を出した蒲生氏郷はしびれを切らし、ついに総攻撃の策で城を陥落させる作戦に切り替えました。前述したように豊臣勢は朝鮮や唐への出兵を控えており、なるべく早く城を落城させる必要があったのです。さらには城攻めの季節にも問題がありました。この時の季節は西暦でいうところの11月。しかも戦国時代は地球の年代で言えば「小氷河期」のピークで寒さに関しては今より比べ物にならない程に寒く、雪の季節になればもはや城攻めどころの話ではありません。しかもこの城を落としたところで恩賞が出るような状況でもなく、城攻めの武将や兵士の士気は奥州の武将を除いては非常に低いものでしたそのために知勇兼備の武将で知られた蒲生氏郷がこのような大将として「らしくない」策で城攻めを行っていたのもこのような一定の理由があったのです。

 「総攻めを行い、その勢いを持って城を落とす。」氏郷は苦渋に満ちた顔でその決断をする他ありませんでした。他の武将たちも厭戦感でまともに動こうとしない将兵を多く見てきたので、早く城を落として自分の領地に帰る為に、総攻めに承諾することを決めました。

 こうして九戸城の総攻めが行われます(このときに氏郷の家臣として九戸城に侵入して一番槍を付けたのが「山三の鑓は『一の鑓』」と後世に語られ、後に出雲阿国(いずものおくに)との恋中で有名になった名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)であると言われています。)。しかし城内は政実を筆頭として武将や兵士が一致結束して勇躍敢闘して、城の兵士を半数以上失いながらも、豊臣方に3,000人近くの死傷者を与えて総攻撃を退けるという未曾有の大戦果を挙げたのです。

名古屋山三郎https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B1%B1%E4%B8%89%E9%83%8E

「降伏すれば助命する」仲介を受けて

降伏・開城するも・・・

 この前代未聞の事態に城攻めの側は何も打つ手がなく、「政実と今後の子細について相談したい」という交渉のカードを切る他ありませんでした。氏郷は軍監(ぐんげん、ぐんかんとも呼ぶ。戦闘の内容や実態を記録したものを君主に報告する係)であった浅野長政(あさのながまさ)に相談して、政実の菩提寺であった長興寺(ちょうこうじ)の住職で、政実の幼少の頃からの学問の師でもあった薩天(さってん)和尚を仲介の使者に立て、政実に対して、「降伏し、開城すれば兵士のみならず、政実をはじめとした武将の命も保証する。」という和解案を告げたのです。政実はこの提案に悩みます。「あまりにも虫が良すぎる。何かの罠なのではないか。」と。しかし、こうも考えます。「此度の総攻撃で城の兵は半数以下にまで減った。しかも兵糧も残りが僅かだ。これ以上戦うことは難しい。しかし、それは豊臣方も同じこと。だが、城を囲むくらいは奥州の勢力に任せることだろう。このままでは座して死を待つ他あるまい。」煩悶とする政実に、薩天はこう語ります。「其方の想いは豊臣の者たちに伝わった。たとえこれで腹を召すことになっても其方の『武士の儀』は貫けたではないか。後のことは奥羽の民が決めること。其方は闘うことによって奥羽の民に道を示した。奥羽の民の皆が其方のことを誇りに想うておる。それでよいではないか。」薩天の必死の説得に政実も破顔します。「そうでござるか。手前は奥羽の民の道標に成ることが出来たのですな。そうと分かればこの命、いつでも豊臣勢に差し出しましょうぞ。和尚、引導を渡してくれたこと、まことにありがたく存じまする。」薩天も応えます。「まあ、これが坊主の生業じゃて。」そして二人は立場の違いを超えて、しばらく笑い合いました。

 その後政実は、降伏、開城することを皆に説き伏せて、弟の実親などの僅かな「抗戦派」の者たちに後を託し、七戸家国、櫛引清長、久慈直治(くじなおはる)、円子光種、大里親基(おおさとちかもと)、大湯昌次(おおゆまさつぐ)、一戸実富(いちのへさねとみ)らと共に、白装束を纏った姿で、蒲生氏郷に投降しました。

 しかしこれは豊臣方の謀略でした。「何が何でも城を落とせ!」と総大将の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に厳命されて焦っていた氏郷は、「武将と兵を切り離し、なおかつ武装解除させたところを攻め込めば、城を落とせる」と考え、政実らの武将たちを秀次の本陣に連行させる決定を下した後、実親らに武装解除させた城に強引に攻め込み、実親らのみならず、女子供まで残っていた城の人々を皆殺しにするという、非道な策を実行したのです。そこで殺された人の中には、政実の幼い息子の亀千代と政実の妻がいました。このような状況下にも拘らず、政実の妻は凛とした姿勢を崩すことなく、城攻めの兵に毅然とこう言いました。「斯様なこの世の地獄のごとき様を幼き子供に見せて死なせることはできませぬ。手をかけるのならば子供からに。」そうして息子の死を見届けた政実の妻は

髪を切り落とし、兵士に自ら首を差し出して、息子の後に続きました(なお、政実の息子は城の抜け穴から家臣や母とともに脱出し、青森の津軽為信の家臣として生き残ったという記録もあります。)。

亀千代最期の地 https://yuki.liblo.jp/archives/21477846.html

 近年の九戸城の発掘調査によって、城の二の丸から多量の女性や子供の人骨が発見されております。(ただし、この人骨については江戸時代の百姓一揆の際の人骨なのではないかとの説も出ており、真相の究明が待たれるところです。)

九戸城の人骨について https://www.sankei.com/article/20210405-J6KIPYHMZVP3BO32JMNKA66O4A

結局は政実らも斬首されることに…

しかし最期まで毅然とした態度を貫く

 政実らの武将たちは秀次の本陣があった、現在の宮城県栗原市三迫の厚地村に連行されました。そこで蒲生氏郷らから九戸城の落城を聞かされたのですが、それでも政実らは動ずることはなかったと言われています。恐らく、豊臣方がこのような策に出ることはある程度承知していたと思われます。その後秀次から武将全員の斬首の言を下されますが、それもまた政実たちは淡々と受け入れたと言われています。この時の政実ら武将たちの心境をうかがえる資料は何も残っていませんが、恐らく豊臣方に対して奥州の民や武将たちの意地と心意気を見せつけることが出来たという達成感で満たされていたのだろうと思います。また、自分たちの征伐に65,000の兵を挙げた豊臣方に対して、「『南部家の家臣』ではなく、『南部から独立した勢力』だ」と扱われていたことに意気を感じていたのではないかと思います。

 天正19年9月20日(1591年11月6日)、政実らはこの地で斬首の刑を受けました。政実の享年は55歳と言われています。(近年、神社の奉納金の記録により、政実の生年が前倒しになる可能性が出ています。)

この地には政実の首洗いの井戸跡など、政実に関する遺跡が残っています。また、政実の首は家臣が持ち帰り、政実の菩提寺の長興寺に埋葬したと言われており、現在は供養塔が建立されています。

九ノ戸神社 https://mou-rekisan.com/archives/6872/                   
九戸政実の首塚 https://yuki.liblo.jp/archives/21476579.html

九戸政実の乱がもたらしたもの

 このようにして政実は生涯を終えたのですが、政実の評価はまったくと言っていいほどに高いものではありません。曰く、「豊臣勢の凄さを全く理解せず、戦を起こした愚将」、曰く、「蛮勇だけが取り柄の『猪武者』(いのむしゃ)」、「『脳筋』武将」、「奥州の『田舎武者』」など、ほとんどが罵詈雑言に近いレベルで、歴史学者からは厳しく扱われています。

 しかし、筆者はこの乱について、「東北の大名の地位を保全した」という意味で、一定の効果があったとみています。というのも豊臣政権下では、豊臣家の子飼いの武将が米が採れる良い領地に転属されるケースが多く、実際に福島には蒲生氏郷が90万石の地位で赴任しています(氏郷が死去してからは上杉景勝が120万石の地位で赴任しました。)。しかし、それ以外の東北の武将たちはその領地や地位を安堵される結果となりました。勿論、この戦において、東北の武将たちの奮闘が認められたというのもありましたが、無用な国内の混乱を避けたいという豊臣政権の強い意向が働いた、と筆者はみています。そもそもこの戦自体が朝鮮や唐に出兵しようとしていた豊臣政権の「末期症状」とも言える内容であったと言えますし、もし秀次ではなく秀吉が総大将であったなら、果たして結果はこのような状態になっていたでしょうか?歴史に「if」は禁物ですが、もし秀吉がこの戦の総大将であったならば、政実の武勇を称え、東北のどこかの領地の大名として赴任させたり、下手をすれば南部信直に対して、「領主失格」と断罪して改易させ、代わりに政実を南部の領主に赴任させるという「ウルトラC」があったかもしれません。もし政実がそこまで考えたうえで反乱を起こした、というのはさすがに筆者のうがった考えである、と思いますが、皆さまはどう思われるでしょうか?ご感想などを頂けましたら幸いです。

地元では「英雄」として扱われ、

様々なイベントで引っ張りだこ

 このように、政実の評価は全国的には低いものの、地元の岩手では、「秀吉に逆らい、喧嘩を売った『英雄』」として高く評価されています。その証拠として、九戸城のある二戸市では、「九戸政実武将隊」(現在は「南部武将隊」に改称されています。)というおもてなし武将隊が結成され、様々なイベントで活動しています。また、「九戸党」という殺陣集団も発足し、こちらも様々なイベントで活動されています。

 こういった地元での「草の根活動」によって、九戸政実の評価が変わり、良い評価になることを筆者は期待しています。興味の湧いた方はリンクを載せましたので、是非チェックしてみてください。

参考リンク

南部武将隊:YouTube https://www.youtube.com/@masazane/video  
Facebook https://www.facebook.com/kunohemasazanebusyotai/?locale=ja_JP
  Instagram https://www.instagram. com/nanbu.samurai
Threads https://www.threads.net/@masazane.kunohe
  X https://x.com/MasazaneBushou           

まとめ

 今回は九戸政実について取り上げてみました。筆者が九戸政実について知るきっかけになったのは作家の高橋克彦(たかはしかつひこ)さんの著書「天を衝く」で九戸政実を取り上げたのがきっかけで興味がわき、実際に九戸城をはじめ、政実に関する遺跡を訪れ、ますます好きになりました。

 九戸政実は歴史的な評価は低いものの、ゲームなどではかなり名の知られた戦国武将なので、このような形で取り上げてみようと思い、筆者の予想以上の分量と内容になりました。

 今後もこのような形で、東北の戦国武将を取り上げていこうと思いますので、ご一読いただけたら幸いです。それではまた次回にお会いしましょう!

 ご一読いただきありがとうございました。ライナスでした!

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ライナス

ライナスと申します。読書や日本の歴史、アイルランドやスコットランドの音楽が好きなので、皆様に紹介して共有できればと思っています。

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