伊達政宗(だて まさむね)を
裏切りながら政宗から赦され、
再び仕え、「忠臣」となった男
福島県・大内定綱(おおうち さだつな)
ライナス

皆さんこんにちは。ライナスです。今回は伊達政宗(だて まさむね)を裏切りながらも、その後再び政宗に仕え、重臣として出世した福島の戦国武将、大内定綱(おおうち さだつな)について紹介したいと思います。どうぞ最後までご覧ください。
小豪族の身でありながら独立し、
周辺勢力の思惑を巧みに利用し、
自らの勢力を拡大する
才気煥発な若年武将!
大内定綱は天文15年(1546年)に陸奥国安達郡小浜城主であった大内義綱(おおうちよしつな)の嫡男として生まれました。定綱の出身である大内氏は周防国(すおのくに)に本拠を置き、絶大な勢力を誇っていた周防大内氏(すおおううちし)の庶流を自称しており[注1]、実際は陸奥国安達郡塩松城に拠った塩松石橋家(もともとは大崎氏の支族であった)の重臣の身でありながら、主家の石橋家と共に京都への取次や幕府の使者の応接を執り行っていたとされています。このことが周辺勢力や大名の考え方を読み取る力を養っていたと思われます。その後大内氏は、父・義綱の代に隣国の豪族であった田村氏の内応工作に応じて主君・石橋尚義(いしばしひさよし)を追放し、塩松領主となって田村氏の旗下に属していました。
定綱は初めは田村氏の偏諱(へんき)を得て顕徳(あきのり)と名乗っていました。やがて父から家督を継いだ定綱は、天正7年(1579年)3月頃、田村氏が岩城氏を攻めた際に発生した田村・大内両家の家臣同士の争いの裁決に対する不満から、次第に田村氏からの独立を目論むようになります。これを知った二本松城主である二本松義継(にほんまつよしつぐ)は田村氏の領主である田村清顕(たむらきよあき)と定綱の仲介を勧めますが、双方とも矛を収めず決裂し、同年6月に定綱は田村氏との手切れを宣言し名前を定綱と改名、面目を失った義継もこれに同調しました。
独立をした定綱は南奥羽で最大勢力を誇っていた大名の蘆名盛氏(あしなもりうじ)を頼りました。蘆名氏はこれを受け入れ、同氏と同盟関係にあった伊達氏の伊達輝宗(だててるむね)も縁戚である田村氏との間では中立との態度を取りながらも、定綱の独立を認めました。このように、定綱には、幼少期から自主独立の気概に長け、武勇だけではなく、周辺の勢力の領主の戦略や思惑を見抜く確かな見識があったと思われます。
[注1]陸奥大内氏の出自は多々良氏(たたらし)と言われていますが、それを証明する1次資料が無く、仮冒(かぼう)した可能性が高いと思われます。また、先祖が若狭国小浜に住んでいたと言われていますが、それについても確認できる1次資料がないため、定綱の大内氏の出自に関する記録に関しては、今なお謎に包まれています。
・陸奥大内氏について 【仙台藩一族】大内氏について [定綱][前沢][西郡]
・蘆名盛氏について https://youtu.be/kBZ_uNdnj_Y?si=hm5VvHe43roPT-0F
伊達政宗の家督相続で蜜月だった
伊達氏を裏切り、蘆名氏に服属し、
書状で政宗を面罵(めんば)!
何故、伊達氏を裏切ったのか⁉
定綱は 天正10年(1582年)、伊達輝宗が小斎城(こさいじょう)を攻略した際に、輝宗の陣に参上して伊達傘下に入ることを申し入れ、以降は対相馬戦に度々従軍しています。またこの頃、自分の娘を田村氏との対立を仲介してくれた二本松城主二本松義継の子・国王丸(くにおうまる)に嫁がせて自らの足場を固めていきました。こうして天正11年(1583年)、田村領の百目木城(どうめきじょう)主石川光昌(いしかわみつまさ)(石橋氏旧臣、義綱と組んで尚義を追放した有信の子)を攻撃し、田村氏と対立していた蘆名盛氏の後継の蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破りました。
しかし、天正12年(1584年)に輝宗の嫡男・政宗(正室は田村清顕の娘・愛姫⦅めごひめ⦆)が家督を継ぎ、田村氏の支援を鮮明にし、定綱に対して「妻の実家の敵」と言う意見を表明すると、怒った定綱はそれでも不承不承(しぶしぶ)ながら引き続き伊達氏への奉公を表明しました。
一方、蘆名盛隆や二本松義継は大内氏・田村氏の和睦を図り政宗への了解を取り付けようとしていました。しかし、8月になると政宗は田村氏に加担する方針に転換します。この伊達氏のあからさまな外交方針の転換に、定綱は失望と不信感を抱いていきました。もっとも、政宗も蘆名盛隆との衝突を避けるために定綱への攻撃は行う事はありませんでした。
ところが、10月にその蘆名盛隆が寵臣(ちょうしん)に弑逆(しいぎゃく)されるという南奥羽を震撼させる事件が起こり、その後継の家督相続の過程で親伊達派の家臣団が力を失い、常陸国(ひたちのくに)の佐竹氏を支持する家臣団の影響が強まると、それと同時に急速に伊達氏と蘆名氏の同盟関係は終焉に向かっていきました。
恐らく、この機に乗じて、蘆名氏や二本松氏を通じて、佐竹氏から内応するように定綱に対して矢のように書状が来ていたと筆者は推察しています。その過程で定綱は伊達氏からの寝返りを画策し、所謂『反伊達連合』に加担し始めたのだと思われます。先ずは突然米沢城の政宗を訪問して伊達氏に出仕して妻子を米沢に住まわせたいと申し出ました(寝返りのための布石と思われます。)。政宗はこれは受け入れますが、父の義綱が塩松に戻ると定綱はこの約束を一方的に破棄し、更に伊達氏の仇敵である相馬氏との共闘を匂わせるなどをして、裏切りの意思を表明しました。この定綱の行為に激昂(げきこう)した政宗は田村氏に加担して定綱の攻撃を決意しました。
一方、隠居した輝宗は秘かに定綱に政宗への謝罪を求めましたが、定綱はこれに応じることはありませんでした。それどころか、返答の書状において、政宗を痛烈に面罵します。
「若さに任せて我儘(わがまま)な政宗が治めている伊達家など未来はない。輝宗様には深い恩があるが他人に慈悲の心を持たない息子には何の未練もない」
というボロクソな言いっぷり。おまけに俗説では対面した政宗に主従の大内長門(おおうちながと)が面と向かって、
「生意気な口をきくな!この片眼の小僧が!」
と公然と罵倒して唾を顔に吐いたと言う逸話があるとか…。気持ちは分かりますが、筆者としては少々やり過ぎの感じがいたします。
当然こんな仕打ちを受けて、家督を継いで日が浅い政宗が激怒しないはずがありません。周辺諸国に対して、祖父の晴宗、父の輝宗が控えていた大規模な戦闘を行う意思を鮮明にし、それが奥州全土に激動の嵐を呼び込むこととなるのです。
政宗、定綱との戦闘で
奥州全土を震撼とさせる
「小手森城の撫で斬り」を
断行するが、果たして、
その実態と真相とは⁉
翌天正13年(1585年)5月、政宗は蘆名氏が定綱を支援していることを理由に蘆名氏を攻撃しますが、結果は敗北に終わります(第一次関柴合戦⦅だいいちじせきしばかっせん⦆)。それでも政宗はめげることなく、続いて閏8月には定綱を攻撃し、本拠の小浜城(おばまじょう)の支城である小手森城(おでもりじょう)を大群で取り囲みました。大軍での猛攻に定綱は抗う術がなく、籠城策(ろうじょうさく)を取ったうえで夜半の隙を突き、定綱は重臣たちと共に本城の小浜城に逃げています。残された城代(じょうだい)と城兵たちは、定綱が蘆名氏や佐竹氏の援軍を引き連れてくると思っており、伊達軍に対して徹底抗戦の構えを取りました。
しかし、いくら待てども援軍はやってきません。というのも、蘆名氏の側では盛隆の弑逆とその嫡子の亀王丸(かめおうまる)の家督相続によって家中の統制が大幅に低下[注2]し、周辺諸国に援軍を送れる状況にはありませんでした。また、佐竹氏の側も定綱の離反だけでなく、伊達氏に服属する多くの豪族たちの離反を促し、南奥羽をケイオスの状態に導きたいとの思惑によって、纏まった軍勢を進行させるのは時期尚早(じきしょうそう)と言った雰囲気であっただけでなく、後北条氏[注3](ごほうじょうし)や武田氏の大名勢力との外交関係が緊張状態であったのと、小田氏や太田氏といった中小規模の土豪勢力(どごうせいりょく)の平定や鎮圧に兵力を割いていたので、伊達勢に対して大きな兵力を割けなかったという事情がありました。これは定綱にとっては大きな誤算であるばかりではなく、蘆名氏や佐竹氏が自分の事を伊達氏への牽制の出汁に使ったと思わせるのには十分過ぎる行為でした。
しかし、この状況で伊達氏に降伏したとしても、自らの領地や領主としての地位などが保全される可能性はきわめて低いと思ったのか、定綱は伊達氏に対して抗戦の構えを崩すことはしませんでした。恐らく、蘆名氏の家中の混乱が一過性の事象と考えたものと、佐竹氏が対外関係の修復を早期に図り、伊達領内に侵攻するのではないか、という皮算用があったと思われます。
小手森城では城代の菊池顕綱(きくちあきつな)や城兵たちによって評定が開かれましたが、伊達勢の大軍に抗うのは愚策と判断したのか、政宗に対して、降伏、開城する旨を伝えました。
ところが、政宗はこの開城勧告を拒否。城内が武装解除した最中を狙って軍勢を差し向け、城代の菊池顕綱だけでなく、城に籠っていた城兵や、非戦闘員の女子供のみならず、馬や犬までも皆殺しにするという「撫で斬り」を断行したのでした。このような仕打ちはこれまで東北地方で行われた戦では前例がなく、
「小手森城の撫で斬り」
と言われ、家督を継いだばかりの政宗の名前は一気に東北のみならず、全国にその悪名をとどろかせたのです。
といわれていますが、近年ではこの通説が様々な資料の検証によって見解が見直され始めています。
まず最初の説は
・政宗は降伏・開城の際に城主と城兵に伊達家への帰属を勧めるも、城主および城兵がこれを拒否。あくまで定綱に帰属して共に伊達家に抗戦する旨を申し伝えたため、政宗は止む無く「撫で斬り」をした。
という説です。これは当時の交戦規定(現在ではROEと呼びます)上では城主および城兵は伊達家に対して戦闘を継続する旨を表明しているので、たとえ降伏していても「準戦闘員」という立場になり、攻撃側が攻撃しても問題には問われません。非情な言い方にも聞こえてしまいますが、当時の時代はそういう時代であった、という認識を持って我々はこの事態を検証しなければならないのです。
もう一つの説は
・政宗が降伏・開城せよとの命令に城主および城兵は表向きは従うものの、「準備に時間がかかるので猶予が欲しい」と表明。しかしその間に城主および城兵が全員自害。この事態を政宗は敵方にこの事態を知られたら戦意高揚の材料に使われると思い、先手を打って自ら「『撫で切り』を行った」と表明した。
こちらの説は最近歴史評論家の乃至政彦(ないしまさひこ)さんによって語られている説です。こちらの説も当時の状況や主君と家臣の関係を鑑みても一考に値する説だと思います。また、こちらの説で考えた場合、その後の政宗と定綱の関係性を注視してみると、非常に興味深い説であると筆者は思いますが、根拠としている資料が2次資料のため、まだまだ検証の余地が高い説であると思います。
・[注2]蘆名氏の家中の統制が大幅に低下した原因は、先代の盛隆が蘆名氏の血流ではなく、重臣でかつて盛氏に対して謀反を起こした二階堂氏(にかいどうし)の子で、降伏した際の人質として盛氏に育てられた事が尾を引いていたと思われます。勿論、家督継承の順位については亀王丸が最優先順位ではありましたが、伊達氏との関係改善を図りたい家臣団の一派がこの頃から政宗の弟の竺丸(じくまる。小次郎の幼名)を擁立しようという動きを見せており(竺丸については盛氏の存命中から盛氏自身が養子に迎えようという働きかけを輝宗に対して行っていました。)、ここから本格的に蘆名氏の自壊が始まっていったと筆者は見ています。
・[注3]ここで歴史にあまり興味のない方々のために補足しておきますが、鎌倉時代に執権(しっけん)を務めていた北条氏(ほうじょうし)と、小田原城(おだわらじょう)に拠点を置いた戦国大名の後北条氏とは血統および系統ともに全く関連がありません(因みに後北条氏は伊勢平氏⦅いせへいし⦆の系統です。)。
・(蛇足になりますが、後北条氏初代の北条早雲⦅ほうじょうそううん⦆は本名を伊勢盛時⦅いせもりとき⦆と言い、存命中は「北条」の姓は名乗っていません。後北条氏が「北条」の姓を名乗ったのは2代目の北条氏綱⦅ほうじょううじつな⦆からです。)
・乃至政彦氏の仮説について https://president.jp/articles/-/87011?page=7
・小手森城の撫で斬りについて みちのく歴史紀行…小手森城撫で斬り、政宗、南奥の覇者の復活をかけ