平和の祈り
主よ、わたしを 平和の道具にしてください。
憎しみのあるところには愛を
傷つけ合うところには赦しを
疑いのあるところには希望を
絶望のあるところには光を
悲しみのあるところには喜びをもたらすことが出来ますように。
ああ、主なる神よ
わたしが、慰められることよりも慰めることを
理解されることよりも 理解することを
愛されるよりも愛することを
求めるようにしてください。
なぜなら、わたしたちは、与えることで豊かに受け取り、
赦すことで赦され、死ぬことで、永遠の命によみがえるからです。
これは、多分30年くらい前まで、「アッシジの聖フランチェスコの祈り」と呼ばれていた祈りです。フランチェスコは実在した人物です。祈りそのものは、フランチェスコが祈っていたものではないそうで、どうも、世界に広まる課程で何らかの誤訳があり、「フランチェスコの祈り」と呼ばれるようになったようです。しかし、祈られている内容が、かなり、フランチェスコの人物像と共通している不思議さを持っています。
私がこの祈りとはっきりと出会ったのは、中学生の時でした。教会の西暦2000年を記念する礼拝、ミッションスクールの朝の礼拝(もしくは授業)、そして、マザーテレサの本です。
マザーテレサ、最近、まわりでどんどん名前を聞かなくなりました。20世紀のインドのカルカッタ(現在はコルカタと呼ばれています)のスラム街で、貧しい人と一生を共にした1人の修道女の名前です。
年齢をばらすことに少し抵抗がありますが、マザーテレサは、私が子どもの頃、でした。
カトリックの信者の方から、本や祈りのカードを頂き、家に本があり、道徳の授業で扱われ、よくテレビでも取り上げられていましたから、私の心の中に刻まれているような名前の一つです。映画や、海外滞在時に、実際にマザーテレサの修道会の方にお会いしてお話をさせて頂いた時の思い出もあります。
この、平和の祈りは、よく、マザーテレサが愛した祈りとして紹介されます。マザーを知る人達は、みんな、マザーの心をとても現わしていると言うでしょう。私も、そう思います。
さて、私見になりますが、人には、とてもとてもそうは祈れないときが、絶対あると思います。少なくとも、私はそうです。まず、私の心に平和を下さいと祈りたい時が、誰にでもある。とてもとても祈れない時、私は、「神様、祈れません。」「神様、私の心は、今正直そうは思っていないのをあなたはよくご存じです。でも、祈らせてください。そして、心から、そう願えるように、どうぞ私を助けてください。」そんな風に祈ります。
祈れないときの祈りのルーティーンに加えたい、一つの祈りです。これを機にとりあえず印刷して、部屋の壁に、マスキングテープで貼っておこうかな。