あけましておめでとうございます 今年も穏やかに自分らしく過ごせるように
ほどほどに、頑張りたいです。
一目千本桜の桜のページェントと白石川をみて一句詠みます。
「水面(みなも)には ふゆさくら映ゆ 川しずか」🌸🏇
さて今回は昨日読んだ記事についてエッセイにします。
『定禅寺通りのアートと、聞こえなかった声』
仙台市の定禅寺通りで、障がい者アートのイベントが開かれるという新聞記事を読んだ。
町に象徴とも言える並木道で行われる祭典は、周知という点では大きな意味を持つでしょう。
「障がい者福祉から障がい者活躍へ」という言葉も、前向きで、時代に即した
表現に聞こえる。
⛄
ただ、読み進めるうちに、ある違和感が残った。
肝心の「描く人の声」が、どこにも見当たらなかったのである。
⛄
どんな思いで作品を描いているのか。
なぜ定禅寺通りで展示したいのか。
見られること、評価されることをどう受け止めているのか。
⛄
そうした言葉はほとんどなく、記事に並んでいたのは
主催者の理念や社会的意義だった。
抽象的な理想は語られているのに、キャンパスに向かう一人ひとりの息づかいが
伝わってこない。
⛄
「活躍」という言葉は便利です。しかしそれは、誰かが与える称号ではありません。
本来は、本人が
「ここで表現したい」「この作品を見てほしい」と選び取るものです。
そこに至るまでの葛藤や誇り、あるいは不安も含めてこそ、
活躍が現実になると考えます。
⛄
また、記事は健常者の読者に対して、何を求めているのかも
曖昧に感じました。
応援すればいいのか。
理解すればいいのか。
それとも、一人の表現者として対等に作品を見つめて
良いものは良い、そうでなければそう言う覚悟を持つべきなのか。
⛄
もし健常者にできることであれば、
それは「特別視しない優しさ」かもしれません。
障がいという背景を知った上で、作品そのものと向き合うこと。
福祉イベントとして消費するのではなく、街に並ぶ一つのアートとして受け止めること。
それは簡単なようで、意外と難しい。
⛄
障害者アート祭典は確かに周知は必要です。
しかし理念ばかりが先行すると、当事者は再び
「語られる存在」になってしまう。描く人が語り、見る人がどう関わるのかを考える。
その往復があってこそ、定禅寺通りの並木は、本当の意味で
多様な表現を受け止める場になるのではないでしょうか。
おしまい 最後までお読みいただきありがとうございました。
誰に対して伝えたいのか、それは大事で難しい。
でも寄り添うことは必要と考えます。
