ボランティア日記第一弾 カルカッタ編 前編

トピックス

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・クラクション

カルカッタの町は人と車であふれていた。特に、タクシーの多さは驚きである。カルカッタの中心的繁華街であるチョーロンギ―通り一角にあるホテルを一歩出るとけたたましいクラクションの音、行きかう人の多さに圧倒されてしまう。横断歩道はあってないようなもの。歩行者は車を怖がらず、車の間を縫う様にして通りを渡り、車はそんな歩行者をものともせず効き目のないクラクションを鳴らしながら突っ込むように前進してくる。この大胆さには唖然とするばかりだった。因みに不思議なことに滞在中交通事故には一件も遭遇しなかった。

ニューマーケット

チョーロンギ―ー通りの裏手には広大なバザール、ニューマーケットがある。滞在中、何度か買い物に訪れた。ホテルからほんのわずかな距離なのだが車と車の間をすり抜け、バクシーシ(喜捨)を求める手や執拗な客引きを何とかやり過ごしてやっと、たどり着くといった感じだった。ニューマーケットの中には、2・3坪の店がひしめきあっている。野菜、果物。肉、香辛料、衣料品、日用品等が鰻の寝床のように縦長に一地区を形成しており、横切るとその地区特有の臭いがした。‘匂い‘ではなく、‘臭い‘だった。切り落とされたヤギの頭が無造作に転がっている肉売り場では思わずギョッとしてしまった。

映画大国

残念なことに日本ではそのほとんどが一般公開されていないが、インドでは、年間800本以上の映画が作られており、香港映画と共に東南アジアからアラブ、アフリカまで普及している。映画王国と言われる所以である。町のあちこちの書店に並べられた映画雑誌の種類の多さからも、その繁栄ぶりがうかがわれる。同じ界隈に数件の映画館が並んでおり、インド映画の大半は、大衆娯楽映画が主流で1本の映画に歌あり、踊りありと様々な要素が盛り込まれているところから、何種類ものスパイスを混ぜ合わせたカレー粉マサラにちなんで「マサラ・シネマ」と言われているそうだ。

{・デジタル時計}、買い物中、片言の日本語を話す店主が私にショールを盛んに勧める。手の込んだ刺繡が施してあるいい物だったが、買うつもりはない。「お金がないから」と断ると私の左手をぐっとつかみ、「この時計と交換でいい」と言う。断るうちに段々とショールが上等な物になっていく。結局、彼には諦めてもらったが、何の変哲もないデジタル時計を彼はとても気に入ったらしい。

いい人?悪い人?

カルカッタの町中を歩いていると色々な人が声をかけてくる。バクシーシをねだる母親や、ストリートチルドレン。お金持ち日本人をカモにしようとしている商売人、珍しい日本人に好奇心がうずうずしている人、そして、ただの親切な人。バクシーシを求められるといつも応じるべきか断るべきか迷ってしまう。迷った末に断ることが殆どだった。その後必ずと言っていい程。罪悪感とまではいかなくても、ちょっとした自己嫌悪に陥ったりした。自分のとった行動に確信がもてなかったからだと思う。ニューマーケットは、歩いているだけで客引きが寄ってくる。一軒の店に入って品定めでもしようものなら、向こう三軒両隣の店の人やらなにやら瞬く間に商魂たくましい商売人達に取り囲まれる。商店街一丸となって売ろうとしている感じで、そこがちょっと面白かった。カモにされるのは嫌だが警戒し過ぎて善良な商売人や親切な人に冷淡にしてしまった時は本当に申し訳ない気持ちになってしまう。もちろん、悪い人ばかりではない。要は、物の相場を知り、はっきりNOと言えなければダメなのである。

そして、声をかけられるたびにこの人、いい人?悪い人?の疑問がぐるぐると回り始めるのである。ある彼は、私達がニューマーケットを訪れる度に必ず話しかけてきた。私達の前になり、後ろになり付きまとって親しげに話しかけてくる。おうむ返しに日本語をしゃべり、何度も用はないからと言ってもおどけた調子で笑いながらついてくる。人を食ったような態度に好感は持てなかった。最後の日、前日に行ったお店にもう一度行こうと思ったが、迷っていた。すると、またどこからともなく彼が現れ「昨日の店、こっちこっち、大丈夫、ほんとほんと」(まんまとその手にはのらないぞ)と心の中でつぶやく。「大丈夫、自分達で行けるからあっち行って」と私達。彼を無視して先に進むが行けば行くほど分からなくなり、昨日とは違って見える。ほとんど、迷子状態である。そんな私達に飽きもせずついて来ていた彼は、一つ一つ見覚えのある店や、路地を指し示しながら上手に私達を誘導し、目的の店へと案内した。次第に彼への信頼度が高まっていく。ところが、着いたものの休業日だったりで、彼が別の店に案内すると言い出して、またしてもやっぱり最後には自分が儲けられる店に連れ込む気なんだと警戒心が高まる。それでも彼は、笑いながら「大丈夫」を連発しながら歩いていく。警戒心と、信頼の気持ちが行ったり来たりしながらも彼に着いて行ったのは、それまでの彼に、強引さがなかったからだと思う。彼は決して無理強いはしなかった。結局、彼に案内された先々で私達は、買いたい物を手に入れる事が出来た。最後に彼は、私達が自分達で帰れる場所まで送ってくれた。別れ際に彼にお礼を言うと、シャツにつけた許可証のような赤いバッチをちょっと誇らしげに見せ「これを付けているから大丈夫なのだ」と言うような事を言った。きっと、許可を受けて仕事をしていると言うことなのだろう。これだけで彼をいい人とは一概に言えないが、彼は一貫して私達に何かを強要したり、嫌な目に合わせたりはしなかった。彼のおかげで何事もなく、買い物ができた事を思うと疑って冷淡にあしらった事に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。今になって思うと、おどけた調子の彼の笑顔は商売抜きの人なつっこい世話好きなインド人の笑顔だったのかもしれない。

第一位*クリケット

カルカッタ市内や、ボーイズホームで流行していたのがクリケットという野球にほんの少し似た紳士のスポーツ。テレビのCMでも宣伝しており、今や市民からの絶大な人気を誇るスポーツである。市内には、巨大なクリケットスタジアムがある。

第二位*ベスト&マフラー

世界的な異常気象の影響を受けてかインドは思っていたよりも涼しく夜の冷え込みは雪国育ちの我々日本人も少々きついものがあった。そんなインドの人々、特に男性の間ではやっていたファッションスタイルがちょっと長めのベストにマフラーという物だった。夕方近くになり、冷え込んでくると、男性はマフラーを女性はサリーを”真知子巻”にして家路を急ぐのだった。

第三位、立ちション

片やシンガポールでは、立ちションをすると警察に捕まるというのにインドの男性は人目も気にせずに壁や側溝に向かって小便をしていた。これはまさに、文化の違い、御国柄の違いだった。

彼女達と初めて会ったのはインドへ来て二日目、カルカッタYMCA主催のランチパーティの時だった。10人程の女の子が女性の引率者に連れられてやってきた。彼女達はサリーではなく、ジャルワールカミーズというワンピースのような服を着ていた。私達は、昼食を彼女達と一緒に食べる事にした。芝生の上に円になって座った。色々話しかけたが、英語が通じないのか、ただニコニコと笑うだけだった。食事は日本食と、カレーの両方だったが、このカレーが実に辛い。顔を真っ赤にして悪戦苦闘している私達日本人をよそに子供達は平気な顔でそのカレーをどんどん食べていた。こんなに辛いものを小さい頃から毎日食べてインド人の胃は大丈夫なのだろうか、恐るべしインド人の消化器官。

引率者の女性と話しをすると、彼女はカルカッタでストリートチルドレンを集めた学校の先生をしているという。子供の数は75人、そのほとんどが女の子で学校は朝9時頃から夕方5時まで。実はその学校は、マザーテレサが開いた学校でその先生の名前はシスターテレサということが分かった。

ボーイズホームでの活動を終え、再びカルカッタに戻ってき来た日、私達は彼女達の学校に行ってみることにした。お土産を持って現れた私達を見て、小さい子やランチパーティでの私達の事を覚えていてくれた子供達が喜んで集まってきた。その中に、十代前半でお腹の大きい子がいた。若くして望まぬ妊娠をしてしまった子もここでケアしてくれるという話を聞いて安心した。先生の大きな愛情に包まれて一刻も早く立ち直ってくれることを願った。

ストリートチルドレンは、世界中でどれくらいいるのだろうか?ユニセフ(国連児童基金)の「世界子供白書」によると世界中で約3000万人、特にブラジルやペルー等中南米に最も多くアジアではインドやフィリピンに多いという。意外な事にストリートチルドレンの中に孤児は少なく3%位である。では最大の原因は何かというと、{貧困}そして{家庭崩壊}である。 貧しい家では父親が朝早くから働きに出かけ、夜遅く帰ってくる。次の日に備え早く眠りたいのにお腹を空かせて泣きわめく子供の声で眠れない。殴りつけて寝かせようとする親の暴力を恐れる子供達はその結果、家を飛び出して、そのままストリートチルドレンになってしまう。そのような子供は自分の身を守るために自然と暴力を使わざるを得なくなる。つまり、暴力という名の悪循環がここで生まれてしまうのである。典型的なストリートチルドレンの例を紹介したがその裏にある南北格差による「社会的暴力」について私達はもう一度考えなおさなければいけないのではないだろうか。

1997年9月6日早朝の新聞は「前夜マザーテレサが持病の心臓病の為、87歳の生涯を閉じた。」と報じた。

路上に倒れた貧しい人々、親に見捨てられた子供達、ハンセン病患者・・・、社会からはじきだされた小さくて弱い者を見つめるその目は優しく、さしのべるその手は温かかった。

マザーテレサは1910年、マケドニア(旧ユーゴスラビア)でアルバニア人の裕福な家庭に三人兄弟の末っ子として生まれた。アグネスとして名づけられた少女は7歳で父を失い母の手で育てられ、生活の貧しさと信仰の豊かさを経験する。12歳で修道女になる決心をして、18歳でアイルランドのロレッタ修道会に入り翌年、インドに派遣され修練を積み、20歳でカルカッタのロレッタ修道会付属のセント・メリー高校の地理教師となった。やがて、校長に就任した彼女は、祈りと仕事の穏やかな日々を送っていた。しかし、その間に修道院の外のカルカッタは大きく変化していた。大飢饉や暴動が相次ぎ町は荒れて深刻な食糧不足が生じていた。彼女の学校でも食料不足となり、生徒の食べ物を探しに町に出て、そこで見たものは・・・炎に包まれる家々と重なり合う死体の山、断末魔のうめきをもらしている人々、テレサが受けた衝撃は計り知れない。

それから1カ月後の1946年9月、瞑想の為ダージリンに向かっていた夜行列車の中で彼女は神の召命を聞いたのだった。「内なる呼びかけの声が聞こえました。ロレッタでの9年間は幸せでしたがそれを捨て、路上で暮らす貧しい人々の為に働くようにと言う声が聞こえたのです。神は私にもっと何かを求めている、もっと貧しくなること、そして神の姿そのものである貧しい人々を愛する事を求めていると感じました。しかし、修道会を離れて彼女自身の道を行こうとする願いは理解されず中々、許可されなかった。ある主教は「礼拝堂のローソクさえ満足に点けられないお前ににどうして新しい団体を作ることなど出来る事だろう。」と言ったという。ようやく許可が出たのは、2年後だった。パトナ(インド東北部ビハール州の都市)で看護と医療の勉強をしたのちカルカッタの町に踏み出したのだった。38歳になる小柄なシスターテレサがその時身につけていたものは、粗末な木綿のサリー、素足にサンダル、ポケットの中にはわずか5ルピーが入っているだけだったという。

それから、約半世紀に及ぶ「愛の宣教者会」の働きは「死を待つ人々の家」に始まり、今では(約30年程前)世界120ヶ国に169の教育施設、1369の診療所、約755の身寄りのない人達のホームにまで広がった。{私達がお世話になったボーイズホームもその一つである。

<大きな事は何も出来ない私だが、日々身近な人に愛と感謝の気持ちを込めて暮らすことから始めたい、それがマザー・テレサが私達に残してくれたものだから。>

※~(私達は、彼女と会見予定をしていた。だが、インドに行く前日に亡くなったとの訃報が入った。とても悲しく、ショックだった。憧れの尊敬するテレサに会ってお話するのをとても楽しみにして心待ちにしていただけに、本当にショックだった。それでも私達はインドに向けて飛び立った。そして領事館の計らいで葬儀に出席させてもらえた。とても悲しかったけれども、テレサの葬儀に参列することができたことがとても誇らしく嬉しかった。~※

3につづく

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まりあ 如月

私は数年前に倒れ、高次脳機能障害となりました。独身ですが、大学生の息子が一人います。趣味は、旅行、温泉、カラオケ、ダンス、映画、韓ドラ鑑賞、読書、写真、ビリヤード、川柳、子供関係のボランティアと多趣味です。特技は、文章を書くこと、人前で話すこと(司会、挨拶等) 趣味や、経験した楽しいお話、また皆様に聞いて頂きたいお話を、物語風に作成しました。是非覗いて下さいね。

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