12月31日、7時、<出発>子供達が見送りに来てくれた。今日は、絶対に泣かないと決めていたのに、後から後から、涙が出て止まらない。もっとここにいたい。
子供達とずっと一緒にいたい。子供達の笑顔をもっと見ていたい。私は、本気でそう思った。バスに乗り込んだ私達に対して、バスの窓に向かって手を差し伸べながら別れを惜しんでくれた子供達、R先生の涙、子供達の涙、そして自分自身が流した涙。私は、一生忘れないだろう。そして又、必ず来ると誓った。
【まとめ】
私達は、3日間をラナグハットのボーイズホームで過ごした。それは私にとってとてもいい経験となり、いい思い出となり、そして本当の意味での”愛”を知った。子供達はその愛の素晴らしさ、優しさ、他人に与える本物の笑顔の意味を教えてくれた。子供達は何の暗さもなく、心の奥深くに潜んだ淋しさなどみじんも見せることなく、最高の笑顔で私達を迎えてくれ、最高の温かさで接してくれた。。今でも、一人一人の子供達の姿が目に浮かび、私の頭に焼き付いて離れることはない。朝、子供達に会うと、覚えたての日本語で「おはようございます。」と元気な声で挨拶し、それに対して私達も、「シュプラハット」とベンガル語で挨拶をする。そんな些細な事がとても嬉しく、楽しい。たった3日間という短い期間だったけど私はここで出会った人達を愛している。私に、優しさや純真な心を教えてくれた子供達を心から愛している。
{先生から聞いた、ボーイズホームの子供達の事~}(お話を聞いた当時約30年前)
12月30日夕暮れ時の日差しの中、私達は芝生に輪になって座り、R先生とG先生のお話に一心に耳を傾けていた。お二人は、ボーイズホーム設立当初からここで教えている。27年間を子供達と共に歩んでこられた先生方なのだ。
〜設立当初の事、聞かせて下さい。~
ボーイズホームは、マザーテレサの「神の愛の宣教者会」によって、カルカッタの町から集められた45人程の孤児や、ホームレスの少年からスタートしたの。初めは思い切り遊ばせて、徐々に勉強を取り入れていったのだけど何しろ学校も行ったことのない子供達だからここの生活になじめず、カルカッタまで歩いて帰った子もいたわ。(村からカルカッタまでは車でも3時間半!!)
{~どんな境遇の子供達がここに来るのですか?~
全くの孤児ではなく、離婚や、貧困などで崩壊した家庭で満足に養ってもらえない子供達がほとんど。片親がいて今でも年に一度休み中に親元に帰る子もいるけど、必ずしもそうする事が彼らにとって幸せとは限らないの。だって親は、自分の生活で精一杯。子供が帰って来ても彼らは、ほっておかれるだけ。休み中一度も勉強せず、しまいには前学期に苦労してようやく覚えた事を休み明けには一つ残らず忘れてしまった子もいるわ。あの時は、本当にがっかりしちゃったわ。
{子どもはどうやって選ばれるのですか?}~カルカッタYMCAに寄せられる申し込み(誰でも申し込める)の中からYMCAの主事が選考して連れて来ます。
{・現在の18人という数は、この立派な施設の割にかなり少ないと思うのですが?
本来は30~35人位は受け入れ可能で、最盛期は75人なんて時もあったわ。でも、スポンサーとの契約が切れて、今は経済的にとても厳しい状況だから、これでも精一杯なの。もっとも、もうすぐ何人かは独立し、また9人が入ってくる予定です。野菜や、家畜を育てて自給自足(米、油は別)し、生活費を抑えているのよ。洋服?足りないわね。遊び盛りの子供達はすぐに汚してくるから大変!着替えがなくて洗濯する間、裸ん坊で待ってる時もあるわ。
{教育は?}小学校までは、敷地内の教室で3クラスに分かれ勉強しています。中学からは地元の学校に通うの。16才頃ここを出てバスの運転手や、コック等の職につくけど、ここの職業訓練センターで学びたいと言えばそうさせます。社会状況は厳しいけれど、ほとんどの子供は本人がやろうと思えば何かしら職はあります。やんちゃで手に負えなかった子が、有名な大学に入ったり、牧師になったり、絵画展で入選したり、幸せに結婚したりというニュースを聞くのは私達にとって本当に嬉しいことです。ただ、大学に行ってもその先、いい就職先につける保証はないから可能性がある子がすぐに大学をやめて職についてしまった事もあるの。残念だったわ。
{先生は、子供達がいけない事をしたら、どうやって叱るの?}
怒鳴ったり、叩いたりはしません。まずその子を静かに出来る場所へ連れて行くわ。その子の傍へ行って、一緒に中に入り、静かにその子の落ち着くのを待つわ。そして、子供の話に耳を傾けるわ。
{R先生は、何故ここに来たの?}私は都会生まれだけど、都会の生活は好きじゃなかったの。村が好きで子供が大好き。だからここに来て、G先生と出会って結婚し、ずっとこの仕事を続けてるのよ。あの頃は私も若かったし、今学校が建ってる辺りも一面、パパイヤ畑で何もなかったんだから。
{お話を聞かせてくれてありがとう、先生。}
お二人は、本当に暖かく真面目で素敵な先生だった。子供達に心からの愛情を注ぎ優しく、時には厳しく彼らを見守っている事がひしひしと伝わってきました。、私はご夫妻の部屋へお礼を言いに訪れた。「先生たちのお仕事、とても尊敬します。色々大変な事も多いと思いますが、子供達の為に、これからもその素晴らしいお仕事を続けていって下さいね・・・」そう伝えると、思いがけずR先生の目から涙がこぼれ、お互い言葉にならなかった。そして、肩を震わせながら何度も、何度も頷いてくれた。インドの恵まれない子供達みんなが、こんな素敵な先生と出会えますように。心からそう思いました。
~ボ―イズホームで出会った少年達~
「死を待つ人の家」に連れて来られた死ぬばかりの乳児で奇跡的に助かった赤ちゃんがいました。その赤ちゃんの為に作られたホームが始まりで、何人かの子供達のためのホームが作られたそうです。ボーイズホームもそのうちの一つで、5歳のAが最年少で17歳のRが最年長でした。少年たちは、何か技術を身につけ16歳になると出ていくのが決まりです。現在は、在籍している子供が少ないためか16歳を過ぎても17か18で独立していくようでした。Rは、年が明けると出ていくということでした。
{印象に残った少年”R”}Rは身長175cm位で瘦せていて、目元が涼しく唇の上にひげを生やし、笑顔の美しい好青年でした。18人のリーダー格として、みんなをひっぱっていました。夕方、礼拝堂では、ベンガル語のベンガル風な讃美歌をみんなをリードして声高々に私達客の前でも堂々と歌いのけました。礼拝の跡、「あなたの声はとても良かったわ」と軽い気持ちで、話しかけました。彼は、本当に嬉しそうな笑顔を見せてイエスへの自分の信仰について話してくれました。「将来何になりたいの?」とまた、私は何気なく質問すると少し躊躇して照れながら、でも真剣な目で「ドクター」と答えました。意外な答えでした。ここの少年達は技術を身につけて出ていくと聞いていたので私は彼も技術者、つまり雇用人として、自立するのが分相応と見くびっていたことに気づかされました。なんて、不遜な事でしょうか?でも、私は「マザーテレサをとても尊敬しています。彼女の生き方は、私達に一番大切な<愛>を教えてくれていると思う。」と話しました。そして「ごめんなさい、下手くそな英語で」というと「大丈夫です、僕も下手だから、でも、外国の人が来ると、一生懸命英語を話すようにしています。以前、イギリスの人が来た時、僕は上手く話せなかった。そして彼は、こんな事を言いました。インドには、205の言語があります。お互い言葉が通じないからインドは進歩しないんだ。世界の人に通じる英語を僕は身につけたいと思い一生懸命勉強しています。私はまっすぐに見つめて語る彼から、目を離す事が出来ませんでした。翌朝6時30分頃、病院の大部屋のようにベッドが沢山並ぶ宿舎を訪ねました。Rはすでに起きていて、明るい朝日の下で教科書を開いていました。裸電球のような明かりしかないので、夜間は勉強出来ないのでしょう。私はジャパンナイトの出し物として用意してきた「かさこじぞう」の英語が幼い子達には通じないことが分かり、Rに、ベンガル語で演じてもらえないかと相談しようと思っていました。彼は了承してくれて、すらすらとやりはじめました。先生の話だと、彼は小学校の時から賢かったと聞き、納得しました。[かさこじぞう」の件を話すと彼は、快く承諾してくれました。「ちょっと待って」と言って自分の棚を開けて、「僕の秘密の日記なんだけど、メッセージを書いてくれませんか?」と日記帳を差し出しました。私は、ちょっとめまいのような物を感じ胸に熱い物がこみあげて来て視界が曇りそうになったのを堪えました。
年末の押しせまった頃でしたが、Rはハイスクールの補習に出かけて行きました。先生の話ではインドは人口が多く、大学入試の倍率が高く、年長の子は勉強が大変だということです。昼近く、補習から戻って来たRと「かさこじぞう」の打ち合わせをした後、彼は、幼い頃からの写真を見せてくれました。「僕は、赤ちゃんの頃からここで生活してきた。ここを出たら、ここからあまり遠くない自分の家に帰って、そこからハイスクールに通う。学費は金持ちではないが援助してくれる人がいる。ここには、あなたと同じ日本人もよく訪問する。僕は自分の夢を実現する為に頑張る。それから、美しい妹の写真も自慢げに見せてくれましたが、インドでは識者は一人しか子供を設けないので、彼の家庭環境が推察出来ます。彼の母親はずっと病に伏せていて妹が面倒を見ていて、母親の病気を治したいというのがそもそもの医者になりたいという動機だったようです。私はとても彼を素晴らしいと思い、尊敬し見習わなければと思いました。
もう一人、私が気にし続けていた少年がいます。5才のAです。笑顔の少ない子でした。頭の右側が怪我で大きく禿げ上がっています。右手の薬指と小指にまひがあり、気づかず手をつなごうとするとすっと私の手からすりぬけました。<Naughty boy.>,一番手が掛かると先生が言うAは、生後6か月の時に両親に育てる能力がないということで、一つ違いの兄ROとボーイズホームに引き取られました。そしてその前に、どうやら両親が稼ぎに出た留守にランプの油がこぼれ、火事になり頭と手に火傷を負ったということでした。ここに来た時Aは、とても汚くてひどい状態だったそうで、先生はお湯で綺麗に洗ってあげ、手当をしてあげ、今日まで育ててきたと言いました。Aと親しくなれなかった事がとても心残りです。そしてジャパンナイトの日、Rは一晩で「かさこじぞう」のベンガル語版を書いてきて、」パネルに張る絵の位置もすっかり覚えていました。演じている間、彼は一度も自分のノートを見ることはありませんでした。
先生であるG夫妻の27年間を振り返る話の中にこんな話がありました。カルカッタの大学を卒業して、今は立派なマンションに住み、一家を支えて暮らす者も、ここにいた時は縄でくくりつけておきたいようなやんちゃな少年だったの。ストリートチルドレンを集めて始まった、ボーイズホームで、心のすさんだ少年達を根気強く育てあげてきた先生方、想像を超える27年間だったことでしょう。
Rに渡した手紙にこう書きました。
「あたたのように自分の夢を真剣に語る青年に出会ったことはありません。あなたは、インドの希望であるだけでなく、世界中の希望です。将来、立派な医者になり、マザーテレサのように多くの命を救うでしょう。
彼は、無償で進学できる国家試験に失敗した時は、別のチャリティスクールの入試を受け、勉学を続けていきたいそうです。30年程前に経験したお話ですが、あの時17歳だった彼は、もう大人になっていることでしょう。きっとインドの人達を救う立派なお医者様になっていることでしょう。そして、結婚して子供もいて幸せな家庭を築いていることでしょう。私はそれを願い、信じて疑いません。他の子供達もきっと立派になっていることでしょう。私はいつの日かそんな彼らに会いに行く事が出来たらと思っています。病気になり、障害を負ってしまった私ですが、今私は、この記事を書きながら、自分も彼らに負けないように頑張らなければと強く思いました。
*ラナグハットで頂いたラオカレーとチャイの『作り方
{ラオカレー}

(ラオ=日本のとうがんの様な野菜)
1.油を入れ、玉ねぎを炒める。2.すりつぶしたしょうがとにんにくを入れ炒める。(黄色になるまで)3.香辛料(ジェラ、ターメリック、チリパウダー、塩)を入れ炒める。4.ラオを入れ炒めて出来上がり。
{チャイ(インド式ミルクティー)
1.鍋に水を入れ沸騰したら、砂糖を入れ、また、沸騰させる。2.紅茶の葉、小さじ山盛り1杯入れる。3.煮立ったら、牛乳(100㏄)を加え、更に煮込み、膜ができるまで温め、温めたカップに、茶こしを使って注ぐ。4.すりおろしたしょうがを入れる。
★日本でカレーを作る時、しょうが、にんにく、トマト、玉ねぎのすりおろしをベースに入れると、インドに近いカレーが出来ると思いました。インドのカレーは日本と違って、具が沢山ではなくて玉ねぎとチキンというように2種類位が入っているカレーです。

私達が覚えたベンガル語
・シュプラハット、/おはよう・アロー/美味しい、・シュオラテッリー/おやすみ、・ドントバード/ありがとう、クシュンダ/可愛い、・パロー/良い、・チョムッカ/偉い、・ショムサミー問題ない、・ナム/名前、/ドマボイスコト/年齢、・ロビー/太陽、・チョーク/目,・カン/耳・トットゥ/口、ダットゥ/舌、・ノック・鼻
(これらの言葉の中で私達は、〈シュプラハット」と「ドントバード」が気にいって、よく使っていました。
買い物に行った時のお話です。朝から市場は人でごったがえしていました。カルカッタのマーケットと大きく違う所は、不意に袖を引く物乞いにギクッとする必要が無いことです。車のクラクションもなく人の表情も落ち着いていて、イソップの「田舎のネズミと都会のネズミ」の話を思い出しました。
この地に生まれこの地で、幸せに生きられるのであれば物質的な恵など二の次なんだと思わせられました。英語はほとんど通じませんでしたが、、<Good taste>は通じるとJが教えてくれました。マーケットの中をJにはぐれないようについてまわり、日本の金物屋さんのような所で万能おろしがねを見つけたのは面白かったです。帰りもリクシャで帰りました。リクシャを引いてくれた方、重くて本当にごめんなさいと思った私です。
愉快で誠実なJさん、ありがとうございました。
