私が少し前から考えるようになったことが「今の社会は公益を軽視しすぎていないか」ということです。もちろん個人の権利も利益を追求することも全くの悪だとは思わないが、それが行き過ぎると正に「今だけ、金だけ、自分だけ」の社会になってしまいます。欧米型の株主資本主義にその特徴がよく表れていて、これは会社は株主のためにあり彼らの利益を最大化することが会社の目的であるとされる考え方です。現代日本を見ているとこの考え方が浸透しているようでなりません。かつての日本には渋沢栄一や松下幸之助のような公益を重視する日本型の資本主義を求めた人がいました。正しいエリート意識とはこういうことを言うのではないかと私は思います。今の「金があるからえらい」とか「知識があるからえらい」とか「学歴があるからえらい」とか「エリートだからいい思いをできて当然だ。一般の人は努力をしてこなかったからいい思いをできないのは当然でそれは自己責任だ。」とする考え方は「歪んだエリート意識」と言わざる負えません。
こうした意識になる背景には教育の影響があるのではないかと考えます。かつての日本は精神性を重視する教育をしてきました。儒学や朱子学などを用いて子供の人格形成をし、その結果日本は治安も民度も良い国になっていったのではないだろうか。しかし今の教育を見ているとその面影がなくなっていってしまっているのではないかと私は思います。現代の教育はとにかく偏差値が高いことが良しとされる偏差値教育でありそれ以外ではあまり評価されません。私は競争社会に否定的であり、その社会に子供を放り込むのも正しいとは思えません。受験とはまさに競争そのものではないだろうか。競争という言葉はもともと日本にはなく英語のCompetitionの訳として福沢諭吉が広めました。ここからわかることが昔の日本人には競争という概念がなかったということです。昔の日本では競い合うことに対し切磋琢磨を使っていました。どちらも同じような意味ですが肝心なところが違います。それは競い合った先に勝者と敗者を作るかどうかです。競争では勝者と敗者が生まれますが、切磋琢磨は共栄の精神であり勝ち負けではなく共に成長するという意味が込められています。日本人の精神性にはこちらのほうがあっているのではないかと私は思います。
ビジネスにおいて競争が良しとされる昨今ですが、なんでもかんでも競争させるのはよくありません。特に一次産業にこれを持ち込むと大変なことになります。一次産業には主に農業、林業、漁業があります。どれも我々の生活を支える重要な役割を担っています。これらに競争や経済合理性を求めたらどうなるのかを考えるとこと日本においては競争の観点からいえば日本産より安い外国産のものが多くあり、経済合理性を考えるなら一次産業なんて儲からないことはやらないほうが得です。ですが一次産業が自国でできなくなり外国に依存することになったら有事の際に危険だということは火を見るより明らかです。もし外交上や社会情勢の理由により供給がストップしたらどうなるでしょうか。最近中東情勢の変化により石油などが止められてしまいましたが、これがもし食料だとしたらどうでしょうか。日本の食料自給率は38%と低くとても一億二千万人を長期間養えるほどの体力はありません。真に強い国家を目指すのであればすべてを自国で賄えるようにする体制を作ることが必要ではないだろうか。
この体制を作るうえでやはり重要になるのは教育です。ただし必要なのは偏差値教育ではなく、愛国心を持ち社会のために自分に何ができるかを考えられる人を作る教育です。こうした精神でもって社会を発展させていくことがこれからの時代求められるのではないでしょうか。
