前回に引き続きなぜここまで餃子にこだわるのかお伝えしたいと思います。
ひとえに餃子づくりを通して自身の成長を実感してきたからです。
私は6歳ごろから餃子の皮を包むという、全国の主婦が餃子づくりで最も難色を示す作業を手伝ってきました。皮を包むというこの工程、家族の数に応じ時間がかかりますし、餡の残量と皮の枚数を考慮しながら行うので、非常に面倒なのです。しかも一日の疲れがたまった夜に大抵は作りますので、面倒はかなりのものになります。だから、母はお手伝いと称して私に餃子の皮を包ませていたんだと今になって認識しています。そんな母の思惑を知らずに当時の私は、大好物のために慣れない手つきで皮をつつんでいました。
物を分かるようになる年齢になりますと、母が楽をしたいがために私にこの工程をやらせているのだと気づきます。しかし餃子大好きっこの私はそんなことをお構いなしに、焼き以外の工程をすすんでやるようになりました。焼くというところだけは、どうにも疲れがたまっているせいで母に押し付けていました。
「すべてはおいしい餃子のために」
言わずもがな、餡は場数を踏めば自然とおいしく作れるようになります。
しかし、包む。これだけは習得するのに時間がかかりました。餡か皮のどちらかが必ず余り、中華風ハンバーグや餃子の皮のピザを副産物としてよく生み出していました。人間誰でも最初からなんでも上手くできる人はいません。それはまあまあ、わかってはいましたが何となく悔しいので、何度もトライ&エラーを繰り返していました。
月日は流れ、人生の酸いも甘いも数年経験したある日、この包むという作業がどれだけ母にとって大変なのか。
餃子という料理は「家族においしいご飯を食べさせたい」という母の愛の現れであるということ。ーーーを理解するよりも先に、「なんでも要領よくこなせるようになったなあ。」と円を描くように並んだ包み終わりの餃子を見て、ある日一人で自分の成長を実感していました。
以上のようなもろもろのことがあったので、くどくどと「餃子にはニラと味噌」とここに主張しているのです。
そんな愛する我が家の餃子も、他のおふくろの味と同じく次の世代に引き継がれようとしています。このまま子々孫々に伝えられ、いつの世も食卓の人気者であってほしいと願うばかりです。
追記:最近は、忙しくて餃子を作ることがほとんどなくなり、代わりに全国の餃子を食べるイベントに行ったり、外食先で餃子を食べるようになってからは先述の考えが変わりつつあります。それにキャベツの入った餃子もおいしいからこれもありだな、と思うことが多くあります。ちょっと世の中を知らなかったり、心が狭いからこんなことを書いてしまうのだなと、また餃子を通して自身のありようを感じています。