荒木一郎さんは、1944年生まれ(ちなみに加山雄三さんは、1937年生まれです)。
女優の荒木道子さんを母親に持つ、いわゆる「二世タレント」のひとりで、実際、荒木さんの芸能活動も俳優としてスタートしましたが、やがてその活動の幅は広がって行きます。
かつて、日本の夜は、今よりも更けるのが早く、22時に入るともう「深夜」でした。
そんな22時台の10分間、ほぼ毎日、ラジオから静かにそっと、こんな歌声が流れてきました。
《空に 星が あるように………》
この、今ではスタンダード・ナンバーとなっている、「ある失恋から生まれた」という、荒木さん自作の「空に星があるように」をオープニング・テーマにしたラジオ番組『星に唄おう』で、荒木さんは日々の何気ない日常を切り取ったようなモノローグを語り、そして自作の歌が1、2曲流れていたのでした(これらの中には後にレコード化されてヒットしたものもあり、また手つかずのまま残されたものも無数にありました)。
『星に唄おう』は大きな反響を呼び、番組には数多くの手紙やハガキが寄せられました。
レコード会社も黙ってはいません。
荒木さんはビクターから1966年8月、『星に唄おう』のテーマ曲である「空に星があるように」でレコード・デビューすることになります。同年10月には芸術祭参加(文部大臣奨励賞受賞)作品のファースト・アルバム『ある若者の歌』をリリースするのと並行してシングル「今夜は踊ろう」、12月にはアルバムからのシングル・カットとして「ギリシャの唄」、そして翌67年2月には「紅の渚」と、コンスタントにシングルをリリース、特に66年のレコード大賞新人賞を受賞した「空に星があるように」は大ヒット、そして「今夜は踊ろう」「紅の渚」もヒットを記録します。
さらに5月にはビートのきいた「いとしのマックス(マックス・ア・ゴーゴー)」をリリースし、こちらも大ヒット(この年の紅白歌合戦には、この曲で出場を果たしました)。勢いに乗って7月には、同じビクターの先輩歌手でもある吉永小百合さんに自作のデュエット曲「ひとりの時も」を提供し、デュエット・パートナーを務めました(ちなみに吉永さんは、あるアクシデントにより荒木さんが表立った芸能活動を休止していた1970年、「小さな命」という楽曲の提供を受け、シングルとしてリリース。「ひとりの時も」のカップリング曲で吉永さんのソロ「こんなに愛しているのに」も、荒木さんが提供したナンバーでした。余談ですが、これが後の、荒木さんの他のアーティストへの楽曲提供の嚆矢となりました。またこの「こんなに愛しているのに」は、中国で非公式に(=未公認で)カバーされ、国民的に有名なナンバーになっているのだそうです)。
といった具合に、アーティストとしての活動のみにおいても、これだけ華々しい成果をあげていた荒木さんでしたが、一方でラジオ番組『星に唄おう』も通常のペースで継続し、また、ソングライティングの面においても、その根本にあるものは、ずっと変わることがありませんでした。
それは「どんな題材であれ、自分の心のうちを、そっと打ち明けるように歌う」こと。
そして結果として「聴き手の心に、そっと寄り添うように歌う」ことで、(特に若い世代から)多くの共感を得ていた、ということです。
確かにサウンド面などでは、その時代ごとのカラーが出ているわけですが、根本が揺るがないことにより、荒木一郎さんの楽曲は、時代を超えた普遍性を獲得するに至ったのではないかと、私は捉えています。
荒木さんの(第一期の)活躍は、この後も続いてゆきますが、1968年に入ると、その活動にちょっとした新たな展開がみえてくることになります。
そのあたりはまた後で、もうちょっと突っ込んで、お話したいと思います。(つづく)