今回は、アルゼンチンタンゴについてまとめました。
・アルゼンチンタンゴのルーツ
1800年代の終り頃に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの周辺部、ラ・ボカ地区の港付近にいた港湾労働者や食品工場で働く人たちのための娯楽施設(酒場、賭博場、売春宿など)が作られました。
その場末の遊び場に持ち込まれた様々な音楽からタンゴは作り上げられました。
タンゴのルーツとして指摘されているものには次のようなものがあります。
①ハバネラ
スペインからキューバに伝わったコントラダンサが土着化したもので、船乗りによってアルゼンチンに持ち込まれました。
ハバネラの有名曲「カルメン」をお聴きください。
②ミロンガ
ラ・プラタ川地域のアルゼンチン、ウルグアイに起源を持ち、アルゼンチンとウルグアイにあった黒人のコミュニティにルーツがあります。1870年代には非常に人気がありました。ミロンガは初期の「パジャーダ・デ・コントラプント」として知られている歌の形式に由来しています。ブエノスアイレスで流行ったミロンガは、ミロンガ・シウダダーナ milonga ciudadana となりタンゴの一種とされることもよくあるまでに「タンゴ」化されてしまい一旦はすたれてしまいます。また、ブエノスアイレス以外でのミロンガは、ミロンガ・カンペーラ milonga campera または、ミロンガ・パンペアーナ milonga pampeana として、フォルクローレのジャンルとして生き残ります。
こちらがミロンガです。
テンポの早い都会のミロンガがタンゴの原型になったようです。
こちらはタンゴ化したミロンガです。
③タンゴ・アンダルース
キューバのハバネラがスペインに逆輸入されて劇中の歌曲となったものです。
演劇を通じてブエノスアイレスに持ち込まれ、特に歌のタンゴの原型となりました。
タンゴ・アンダルースに影響を受けて作られたタンゴの名曲ロシータ・キロガ「君待つ間」をお聴きください。
④カンドンベ
ブエノスアイレスや隣国ウルグアイの首都モンテビデオには、かつてアフリカ系の住民がおり、彼らの宗教音楽から派生した太鼓と歌の音楽カンドンベはタンゴの形成に関連があったとされています。
特にダンスのステップへの影響やタンゴの躍動感に影響を与えたといわれています。
ウルグアイの街角で撮影されたカンドンベの演奏を聴いてみましょう。
このようなジャンルの他にヨーロッパで大流行したポルカやワルツを通じて伝えられた大衆的なダンスをすることの楽しみが、移民たちの間に新しいダンスを生み出す動機になったと考えられています。
・アルゼンチンタンゴのその後
20世紀に入り、一般市民にも人気が広がり、第1次世界大戦後にはヨーロッパの社交界でももてはやされ世界的な人気となりました。そしてコンチネンタル・タンゴといわれるヨーロッパ生まれのタンゴも盛んになりました。その後、1930年前後と40年代の2度にわたる「黄金時代」を経て、80年代には、アストル・ピアソラの音楽やダンスショー「タンゴ・アルヘンティーノ」の世界的大ヒットがあり、2009年にはユネスコの世界遺産(無形文化遺産)に登録されました。
・アルゼンチンタンゴの大作曲家、アストル・ピアソラ
アルゼンチンタンゴの作曲家で有名なのがアストル・ピアソラです。
アルゼンチンタンゴで頻繁に用いられるバンドネオンという楽器の奏者だったピアソラは、タンゴに限界を感じ、パリにてクラシックの作曲家、ナディア・ブーランジェに師事し作曲を学びました。
元来タンゴは踊りのための伴奏音楽であり、強いリズム性とセンチメンタルなメロディーをもつ展開の分かりやすい楽曲でした。しかし、ピアソラはそこにバロックやフーガといったクラシックの構造や、ニューヨーク・ジャズのエッセンスを取り入れることで、強いビートと重厚な音楽構造の上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させるという独自の音楽形態を生み出しました。これは完全にタンゴの表現を逸脱しており、「踊れないタンゴ」として当初の評判は芳しいものではなく、一方で、ピアソラの音楽はニューヨークなどのあまりタンゴと関わりを持たない街で評価されたため、タンゴの評論家から意図的に外されるといった差別も受けました。現在でも、国際的に評価されたピアソラの音楽はアルゼンチン・タンゴの本流ではない、という厳しい意見も根強く残っていますが、ピアソラと対立した多くの音楽家がこの世を去っていることもあり、タンゴの可能性をローカルな音楽から押し広げた功績はアルゼンチンのしがらみをはるかに超えて、国際的に高く評価され続けています。
ここでアストル・ピアソラの名曲を二曲ご紹介して今回はおしまいにしたいと思います。
「ブエノスアイレスの冬」
「鮫」