今回は東西ローマのキリスト教の聖歌についてまとめたいと思います。
・ローマの歴史
古代ローマは最初王族が支配する国家でしたが、7代目の王様の時、王様の息子のスキャンダルが市民に知れ渡り失脚しました。王族は追放されて王政は終了しました。
そこからローマ人は長らく単独の支配者を嫌い、一年の任期を持つ2人の執政官とそれに助言をする元老院、そして執政官を選ぶ民会で成り立つ共和政をとっていました。
しかし、戦争に勝利した後、戦利品の分配が平等に行われず貧富の差が激しくなり、貧困層と奴隷たちが反乱を起こすとそれを鎮圧した2人の男と当時のカリスマ、カエサルによって執政官は3人となります。これを三頭政治といいます。
三頭政治は長く続かずカエサルの独裁状態となり独裁を嫌うローマ人の不満がたまり、ついにカエサルは暗殺されます。
カエサル暗殺後、カエサルの盟友アントニウスとカエサルが後継者に指名したオクタウィヌスとレピドゥスで三頭政治を行いますがそれも長く続かず、オクタウィヌスが唯一の権力者になりました。
オクタウィヌスはカエサルの失敗から学び独裁者にならなかったため、「尊厳なるもの」という意味のアウグストゥスという称号を手に入れたことで、皇帝となりました。そこから長く続いた共和政は終了し帝政ローマが始まります。
実際に唯一の権力者だったアウグストゥスが皇帝となり、安定した平和な時代になり、それはしばらく続きました(五賢帝時代)。しかしその後、コンモドゥスというローマ史上最悪の皇帝の際に、ローマ帝国の政治は腐敗し、しばらく混乱しました。50年で26人もの皇帝が乱立したりもしました。
しかし、ディオクレティアヌスの時代にまたローマ帝国は再び安定します。
ディオクレティアヌスは、ローマ人の結びつきを強くするためにローマの神々の信仰を義務付けました。そこに、一定数の一神教のキリスト教徒がいて、ローマの神々の信仰に抵抗しました。その結果、ディオクレティアヌスはキリスト教を迫害することになります。
その後、ディオクレティアヌスが体調を崩して引退すると、コンスタンティヌスが皇帝の座につきます。
コンスタンティヌスは、ローマにあった首都を現在のイスタンブールに位置するピザンティウムという場所に遷都し、コンスタンティノープルと名付けました。
ディオクレティアヌスの時代から迫害されていたキリスト教徒でしたが、徐々に人口が増えてキリスト教を迫害する方が治安が悪化すると考えたコンスタンティヌスは313年にミラノ勅令を出してキリスト教の公認を行いました。
しかし、キリスト教の教義はまだ定まっておらず、他の宗教もあったためかえって治安は混乱しました。
そして次の皇帝であるテオドシウスは異教を禁止し392年にキリスト教をローマ帝国の国教にしました。
テオドシウスの死後、ローマ帝国は大きくなりすぎて東西に別れることになり、西ローマ帝国と東ローマ帝国になり、西ローマの方は100年も経たずにゲルマン民族に滅ぼされ、東ローマ帝国はピザンツ帝国とも呼ばれて分裂後約800年間に及び存在し続けることになりました。
1453年ピザンツ帝国近くのオスマン帝国の侵攻により滅亡しました。
・初期キリスト教の音楽
キリスト教は、そのはじめから典礼の際などに音楽を重用してきました。
ローマ治世下において迫害された時代にもひそかに集まったキリスト教徒たちは、祈りの中で聖歌を口ずさんでいました。その当時のものは、まだ形の整わない素朴なものであったようです。
初期の聖歌には詩篇を朗唱する詩篇唱とギリシャ起源と考えられる賛歌とがありました。いずれも単旋律で伴奏はなく、和声的な要素は全くないものでした。
詩篇唱は詩篇が一定の旋律型によって歌われるというユダヤ教時代の形を受け継いだもので、これには応唱と交唱の二つの歌いかたが行われていました。
交唱は二つの合唱による交互唱で、ユダヤ教の中でもシリア地方で盛んに用いられていたもので、これを西方教会に導入したのはミラノ司教のアンブロシウスです。
313年にローマで公認されたキリストの典礼の形式と聖歌を整えられていくようになる中で4世紀後半にミラノ司教のアンブロシウスが聖歌に統一を与え、典礼式に用いられる音楽が形式的にまとめられるようになりました。教会旋法のうち4種を定めたほか、交唱形式を東方から取り入れたりもしました。
・東西ローマの聖歌
東西に分裂したローマのうち西側はすぐに滅亡しましたが、東ローマ帝国はギリシャから小アジアにわたっての領土を失うことはなく、よくローマ帝国の伝統を保ちました。
東ローマ帝国は、本来のギリシャ的性格に西アジアの東方的性格を加味して一種独特のピザンツ文化を作り上げていきました。
そのなかで、最も特色のあるのは芸術で、とくに絵画におけるモザイク、建築におけるドームなどにそれがよく現れています。
古来からギリシャ文化を保存し、12、3世紀のヨーロッパにこれを伝え、学問や文化に大きな貢献をし、イタリアのルネサンスの開花へと導いた役割は極めて大きいです。
東西でキリスト教は、西方教会(ローマ=カトリック教会)と東方教会(ギリシア正教会)として発展していきます。
西方教会(ローマ=カトリック教会)ではグレゴリウス1世がローマ教皇として在位した時期(590-604)にそれまでに代々集積されてきた聖歌が彼の名のもとに集大成され、現在でも「グレゴリウス聖歌」あるいは「グレゴリオ聖歌」と呼ばれています。
一方、東方(ギリシャ正教会)で発展した聖歌は「ピザンティン聖歌」、あるいは「ピザンツ聖歌」と呼ばれています。東方教会はスラブ民族に伝えられ、ロシア正教会となり、ピザンツ聖歌を引き継いだことによりロシアの音楽に大きな影響を与えたことが音楽的には重要な部分です。
・まとめ
今回はキリスト教の聖歌は初期には東西ローマの分裂をへて、大きく分けて二種類になっていた、というお話でした。
最後にグレゴリオ聖歌とピザンツ聖歌をそれぞれご紹介して終わりにしたいと思います。