先生のはなし

ついにダンブルドアに聞かずじまいになってしまったことが、あまりにも多い。ハリーが話さずじまいになってしまったことが、あまりにも多い……。
(ハリーポッターと謎のプリンス下 P493 5行目)

先生が自死をした。
別に私の担当医ではないのだが。
べつにべつについ最近亡くなったわけではないのだが。

先生を思い出す。ベリーショートでにこにこした先生。患者さんにほほ笑みかける先生。
そんな先生を見かけないと思ったら、そっと自死なされていたそうだった。
勿論悲しくはあるし何がショックなのかは分からないがショックだった。
まず先生がいなくても、病院は変わらず診察を行い患者は診察を受けていたし、勿論バックヤードでは先生がいない分忙しかったり仕事が増えたり人を増やしたりしたのだろうけれど、多分この誰もしられずに、先生の自死がまるでなかったかのように、人が死んだってのになにひとつ動揺のない風景が一番私はきもちわるかったしショックだったように思う。
もちろん患者に伝えてメンタルが酷いことになったら大変だ。影響を受けたらひどいことになるってこともあるんだろう。

Q人が死んだ 、どう思う?
A影響受けてメンタル酷いことになったほうが健全だと思うけど

正直にいえばこうだ。
患者のメンタルがどうなろうと私のメンタルがどうなろうとウェルテル効果(人が自死したことを見聞きすることにより連鎖的に自死が起こること)が爆発しようが、先生が死んだことを私は知りたかったし、とことんおかしくなりたかった。

人が死んでんだぞ。
そんな時になんで悲しませてもくれないんだ。
動揺させてくれないんだ。
みんなを動揺させないために日常を演じる合理的配慮なんかくそくらえである。
それを当たり前に享受する方もするほうだと思う。
平坦な道、日常が続いていくという夢を社会がみせて自分もそれを信じこむことで得られる充足を幸せだと感じるならここは既にとりかえしのつかないSF世界のユートピアだ。
人が死ぬということがとことん脱臭され、いつもスーパーマーケットに牛乳が並ぶように発注を切らさず人員を確保することが、残酷ではないと感じるのであれば、あなたはそのSF世界のユートピアの住人だ。

不便であればいいのだ。
人員を確保するなとは言わない。
ただ不便であることは死者の重みであるのだから不便さと共に悼むべきなのだ。
不便なのはいのちのおもみだ。
仕事が忙しく自分に余裕がないのはその人のおもみだ。
先生が自死して感じる感情のうねりとよく分からない涙が先生のおもみだ。
仮にもし先生に感化されてわたしが死にたいと思ってもそれでいいではないか。
なにかの弾みでわたしが影響を受けてしんでしまったとしても、それはそれである。
それは悲劇でもなんでもなくわたしの人生だ。
それにわたしは別に塩胡椒か醤油にするか、みたいな軽い考えでしんだりしない。

Q自死を肯定するのか
A質問がクソ。

私の師匠(お世話になった看護師さん)は、わたしが悩んで悩んで考え抜いて出した答えなら自死もそれはそれでありだと思っている、といつか伝えてくれた。
彼女はわたしのことを信頼してくれているし、わたしの人生を尊重してくれている。
看護師、という師匠の立場的にそんなことをいうのはいかがなものかと思わないでもないが、彼女は死生学を重んじている(死ぬことは生きることであることをしっている)ひとだから、きっとわたしの人生を尊重してくれているのである。
そういった死生学的な視点を持つ人をわたしは知人の中で師匠と医療緩和ケアに携わる看護師の方々しかしらない。
死生学、というものを今初めて知ったというひともいるだろう。
別に明るいわけではないが、わたしでさえ日本の死生学は遅れているように感じる。
死はタブーとされる風潮、死を忌避し遠ざけ長寿国となった日本と死生学は絶妙に相性がわるい。
死生学といえばアルフォンス・デーケン氏が上智大学で教鞭をとっていたのだが、生徒に死生学を教えることになったとき、やはり周りの反応は微妙で決していいものだけではなかったと彼の著書に記されている。

Q死生学とは何か
Aどのように生き、どのように死ぬかという学問だ。ざっくりいうとだが。

死生学というとネガティブだが人生の学問といえば不思議とポジティブに聞こえるかもしれない。
もしあなたが死生学はネガティブで人生の学問の方がポジティブであると感じるなら、きっと死生学という言葉に対して抵抗を感じているのだろう。
いずれも同じ人生の学問だ。

Q何故自死を肯定するのか?
A質問がクソ。

なぜクソなのかというと、わたしはひとが生きた人生を肯定するも否定するも他人がすべきではないと考えているからである。自死だろうがなんだろうが、その人が生きた人生をとやかくいうのは下品だと思う。
どのような人間でも、どのような人間でもだ。
他人のことなどなにひとつわからないからこそ、語れることはなにひとつない。
全ては推測、邪推になりかねない。死人に口なしとはいうが、口の聞けぬ相手に向けて否定だの肯定だのすることの傲慢さがわたしには我慢ならない。
残された人間にできることはない。
ないのだ。
この無力感と虚脱感を抱えて生きることが、この生者の沈黙が、死者の眠りを妨げることのないように祈ることしかできない。

もちろんかけたい言葉はたくさんある。
先生に対して、わたしはもっと、先生と話がしたかった。
話しておけばよかった。
そう思うことばかりだ。
しかし、言葉をかけることはできないことをわたしは知っている。
せめてそちらの天気がいいことを、いのることしかできないのである。

そんな後悔をしないように生きようねっていうのが死生学だ。

明るくいえば悔いなく生きよう、最期のときまで。
みたいな学問だ。

興味があればデーケン氏の本を読んでみてほしい。
人生について、生きること死ぬことを勉強したいというかたは。


了
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テラ

言葉が好きです。たまに絵を描いたり小説を書いたりします。

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