1994年ワールドカップアメリカ大会アジア地区最終予選

ワールドカップへの挑戦‐ハンス・オフト監督の招聘

日本のワールドカップ(W杯)への出場挑戦は、1954年のスイス大会から始まりアメリカ大会で9回目の挑戦でした。W杯本大会出場の夢を果たすため、1992年、オランダ人のハンス・オフト氏を監督に招聘しました。オフト監督は日本人サッカー選手に、

「スモールフィールド・スリーライン」(コンパクトな布陣で三列に配置)

「トライアングル」(三角形を作り、パスを回す)

「コーチング」(声かけ)

「アイコンタクト」(目線の合図)

のキャッチフレーズを植え付け、ヨーロッパ流の組織サッカーを浸透させました。

アジア地区最終予選

1次予選を首位で通過し、最終予選に進出しました。他に最終予選に進出した国は、韓国、北朝鮮、サウジアラビア、イラン、イラクでした。

当時の予選は現在のようなホームアンドアウエー方式ではなく、セントラル方式で全チームが一か所に集まって対戦する方式です。勝ち点も、勝ち=2点、引き分け=1点という計算でした。

さて、最終予選は1993年10月にカタールのドーハで行われました。初戦、サウジアラビア戦は0-0の引き分け,第2戦イラン戦は1-2の敗戦。ここまでで得た勝ち点は1で最下位でした。

ここで気合を入れなおし、北朝鮮に3-0、韓国にはエース三浦知良のゴールで1-0で勝ちました。この2連勝で4試合を終えて首位には立っていましたが、北朝鮮を除く5チームに本大会行きの可能性がある大接戦になっていました。

ドーハの悲劇

最終戦のイラク戦に勝てば、悲願のW杯本大会に出場できます。

この試合、先制は日本です。前半5分三浦知良選手のゴールでした。この後イラクに追いつかれるも、後半25分中山雅史選手がゴールをあげ2-1になりました。このままいけばアメリカに行けます。しかし、後半ロスタイム、イラクにコーナーキックを与えます。イラクは直接ゴールに向かったボールを蹴らずにショートコーナーを選びました。日本の守備は甘く、センタリングをあげられ、ヘディングでゴールを決められました。同点です。

試合はこのまま引き分け、得失点差で韓国に抜かれ、3位で終戦。2位までに与えられる本大会出場権はサウジアラビアと韓国に与えられました。

これがいわゆる「ドーハの悲劇」です。

4年後‐フランス大会へ

筆者は、深夜、家族とテレビで日本代表を応援しましたが、ワールドカップに挑戦するにはまた4年待たねばならず、胸を押しつぶされそうな状態で3日くらい過ごしたのを覚えています。

この時から筆者はサッカーというスポーツに興味を深め、当時ブームのJリーグの試合を観戦するようになりました。(Jリーグ創設は、1991年11月1日)

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Jack

他の人より遅れて某大学に入学しました。物理学を専攻し修了までこぎつけました。それだけが取り柄です。サイエンスについて書かせていただきます。

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