1998年ワールドカップフランス大会アジア地区第3代表決定戦

再びW杯を目指す

「ドーハの悲劇」から4年、サッカー日本代表はワールドカップフランス大会本大会出場を目指していました。監督は加茂周監督。「ゾーンプレス」という当時モダンな戦術を掲げ、かつて率いていた横浜フリューゲルスを天皇杯優勝に導いていました。ただ、プレスをかけてボールを奪った後どのように攻撃するか、などはフリューゲルス時代は外国人頼みで代表チームでは確立されていませんでした。しかし、攻撃のメンバーとしては司令塔として中田英寿の台頭があって、1次予選は5勝1分けで突破し、最終予選に臨むこととなりました。最終予選は、ホームアンドアウエー方式で2ヶ月にわたるものでした。日本と同じグループBに所属するのはウズベキスタン、UAE、韓国、カザフスタンでした。

そして闘いははじまった

初戦ホームでのウズベキスタン戦は大勝、しかしUAE戦は0-0で、ホームでの第3戦韓国戦に臨みました。この試合は山口素弘選手のループシュートが決まり日本が先制しましたが後半2得点を決められ逆転負けをしました。この嫌な流れを断ち切れずに第4戦カザフスタン戦は引き分けでした。

この後、日本に激震が走ります。日本サッカー協会は加茂監督を更迭し岡田武史コーチを監督に昇格させることにしたのです。

しかし、この後もウズベキスタン、UAEと連続して引き分けに終りました。この結果韓国のBグループ1位が決まり日本はBグループ2位に入るしか予選突破はなくなる、という事態になりました。

日本の予選突破が危うくなるなか、一筋の光が見えたのが第7戦アウエーの韓国戦でした。名波浩選手と呂比須ワグナー選手のゴールで危なげなく快勝したのです。UAEが最下位ウズベキスタンと引き分けたというニュースも入り、日本はBグループ2位浮上。最終節カザフスタンに5-1で大勝し、韓国の後塵を拝したがBグループ2位を確定させました。

一方、Aグループも激戦となっていて結局1位サウジアラビア、2位イランとなりアジア地区第3代表決定戦は日本対イランということになりました。

ジョホールバルにおいて

1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルでの第3代表決定戦は死闘となりました。前半39分中山雅史選手のゴールで先制したがイランのFWアジジ、FWダエイに決められ1-2になりました。しかし、出番に恵まれなかったが途中出場の城彰二のヘディングシュートが決まり同点でそのまま90分が終了しました。

延長戦はゴールデンゴール方式で最初にゴールを決めた方が勝ちでその時点で試合終了です。日本の岡田監督は延長前半から秘密兵器岡野雅行を投入。双方疲弊していて中盤ががら空きのオープンな展開になりました。ただ、その中盤を一人支配していたのは日本の中田英寿選手でした。延長もあと数分で終わりというところで中田は強烈な左足のシュートを打ちます。イランのGKはそれを手ではじいたのですがそのはじいたボールはゴール前に詰めていた岡野の目の前へ。岡野はそれを浮かないようにスライディングしながらシュート。ゴールネットを揺らしました。延長後半13分(118分)の出来事でした。

ゴールが決まるか決まらないかの瞬間にもう岡田監督はじめコーチ、サイドラインにいた選手たちがピッチになだれ込み、ゴールを決めた岡野を揉みくちゃにしました。

今やW杯の常連国に

現在では日本はW杯の常連国になりましたが、その地位を手に入れるのは監督更迭など紆余曲折を乗り越えてきたからこそである、ということが筆者もよくわかりました。

若いサッカー選手が数多く欧州のクラブチームに所属するなど隔世の感がありますが、次はW杯の優勝トロフィーを手にすることが日本の目標になっています。

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Jack

他の人より遅れて某大学に入学しました。物理学を専攻し修了までこぎつけました。それだけが取り柄です。サイエンスについて書かせていただきます。

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