建国記念の日(けんこくきねんのひ)は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、建国記念の日の趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。
制定
世界で「建国記念日」を法律で定めて祝日とする国家は多いが、何をもって建国記念日とするかは、国によって異なる。
日本では、建国の日が明確ではないが、建国をしのぶ日として法律に基づき「建国記念の日」が定められた。
日付は政令に基づき、日本神話を基に建国日とされていた紀元節“1948年(昭和23)7月国民の祝日法制定に際し、日本国憲法の理念にふさわしくないものとして廃止されたが、1966年(昭和41年)の祝日法改正に基づいて、国民の祝日に加えられ、佐藤栄作内閣では翌1967年(昭和42年)2月11日(政令により規定)から2月11日を「建国記念の日」とすることを政令公布し、適用された。事実上の復活を遂げた日本の国民の祝日の一つ。”
法令上の位置づけ
他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、本日のみが「政令で定める日」と定められている(経緯は#沿革を参照)。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」とした。
式典
戦前は宮中三殿において、大祭の紀元節祭が行われていたが、GHQの圧力で1948年(昭和23年)に停止された。ただし、昭和天皇は翌年の2月11日より、宮中三殿において「臨時御拝」として、旬祭と同じ作法で親拝を行った。平成以降は「三殿御拝」に名称が改められ、同様に天皇の親拝が行われている。この日、天皇は橿原神宮(かしはらじんぐう)に勅使を派遣する。
当日は、各地の神社仏閣(神道神社・仏教寺院)にて「建国祭」などの祭りが執り行われる。
政府主催の式典はないが、「日本の建国を祝う会」が主催する「建国記念の日奉祝中央式典」が毎年開かれ、駐日大使の参列もある。
旧日本海軍の技術・伝統を継承している海上自衛隊では、基地・一般港湾等に停泊している自衛艦において満艦飾が行われる
沿革
制定後から「建国記念の日」に変わるまで
紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。1889年(明治22年)には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。1891年(明治24年)には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年6月17日文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行うことになった。1914年(大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。1926年(大正15年)からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、片山哲内閣により、日本国憲法にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部により削除され、法は1948年(昭和23年)7月に施行された。日本が独立を回復した1952年(昭和27年)から復活運動がおき、1957年2月13日自民党纐纈弥三らは、建国記念日法案を国会に提出し、5月15日衆議院で可決(のち審議未了)、また1958年(昭和33年)に国会へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に賛否両論あるなか数度の廃案と再提案を経て、1965年2月3日首相佐藤は全国知事会議で建国記念日は2月11日が適当、祝日法改正案は政府立法で国会に提出すると所信を表明、1966年(昭和41年)に、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」という趣旨の「建国記念の日」を定める国民の祝日に関する法律の改正が成立した。同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、政令によって定めることとしていた。そのため、同年12月、佐藤栄作内閣は、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日とした。同政令は即日施行され、翌1967年(昭和42年)の2月11日に実施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となった。
1966年12月8日建国記念日審議会は建国記念日を2月11日と答申し、12月9日公布された(政令)。
上述のとおり「建国記念の日」と定められた2月11日は紀元節と同日である。この祝祭日は、1948年(昭和23年)に制定された国民の祝日に関する法律附則2項で、「休日ニ關スル件(常用漢字・平仮名表記: 休日に関する件)」(昭和2年勅令第25号)が廃止された。
国会での審議
紀元節復活に向けた動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第1党の日本社会党が保守政党の反動的行為であるとして反対した為、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となった。
その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。1963年(昭和38年)6月20日には、衆議院内閣委員会において、委員長永山忠則が法案の採決を行ったが、これに抵抗した社会党議員らに暴力を受け(体当たりされ)、入院するという一幕もあった。
具体的に何月何日を記念日とするかについても、議論があった。日本社会党は日本国憲法が施行された5月3日(憲法記念日)、公明党(旧・公明政治連盟)設立者、創価学会会長の池田大作はサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日をそれぞれ提案した。民社党は聖徳太子が十七条憲法を制定したとされる4月3日を主張し、朝日新聞も社説で同じ日付を提案した。
結局、名称に「の」を挿入した「建国記念『の』日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。
同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。当の「建国記念日審議会」は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が1966年(昭和41年)12月9日に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行した。
建国記念日制定運動
建国記念の日制定に至る活動で神社本庁が1955年に紀元節奉祝国民大会運営委員会を設立するなど、主要な役割を果たした。さらに日本郷友連盟、日本遺族会、生長の家など保守系団体が加わり、建国記念の日制定を求める世論形成に寄与した。
サンフランシスコ講和条約が成った1951年前後から神道界、保守系・右翼系の人物や団体が「紀元節復活運動」を始めた。神社界をはじめとする諸団体が「紀元節奉祝会」を結成(事務局は神社本庁)し、全国的に活動した。1954年に神社本庁は紀元節祭を行い、傘下の神社に2月11日を紀元節という名前で祝うよう通達した。生長の家の谷口雅春が1955年(昭和30年)に「日本建国の理想の復活」を謳って(うたって)以後、生長の家信者は紀元節の復活を求める運動をした(谷口にとって、建国記念の日制定は明治憲法復活と日本国憲法廃止のための第一歩であった)。これに対し、野党、民主団体、労働組合、キリスト教者、歴史学者などが紀元節復活反対を表明した。
Kの感想
記念日を制定する為に関係する組織と何年も掛けて話し合いをしても審議未了で強制採決をさせていれば他から反発はあるので全会一致で可決出来るように頑張って欲しいと思います。
政府がもう少し記念日と祝日の起源や意義を国民に知らせる事を考えたほうが良いのではないのでしょうか?
記念日と祝日の起源や意義は知られてなさ過ぎな気がしているKでございます。