戦艦大和
第二次世界大戦当時、世界最大の戦艦を日本が建造しました。その戦艦は「大和」(やまと)といいます。
戦艦大和の構想は第一次世界大戦後に遡ります。1922年(大正11年)ワシントン海軍軍縮条約、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本海軍の装備はアメリカ、イギリスの6~7割に制限されることが決定し、主力艦の建造が中止されました。海軍軍縮条約の期限は1936年(昭和11年)末でした。その後、国力に劣る日本は、大型の主砲を備えた大戦艦を建造することで、艦船の数の少なさをカバーし他国に勝とうと考えました。
1941年(昭和16年)12月竣工後、大和は連合艦隊に編入され、1942年(昭和17年)6月、ミッドウエー海戦で初陣を迎えます。この頃の戦いからは、主役は戦闘機の戦闘に終始したため大和の主砲は役立ちませんでした。その後、数回の戦闘に参加しましたが、大和の巨大な主砲が本来の力を発揮するときはありませんでした。
戦艦大和の沈没
1945年(昭和20年)、大和に海上特攻隊としての出撃命令が下りました。目的地は沖縄でした。坊ノ岬沖海戦と呼ばれる戦いの中で、4月7日、数多くの米軍機からの攻撃を受け、沈没してしまいました。午後2時23分でした。大和の戦死者は艦長以下2498名と記録が残っています。この時の戦いでは大和は片道分の燃料しか積んでいなかった、ということです。
坊ノ岬沖海戦では、10隻からなる艦隊のうち大和を含め6隻が沈没しました。無傷なのは1隻のみでした。生還者たちは、「この戦いは計画・準備に余裕がない。今後は慎重に計画を進め、準備をできるだけ綿密に行う必要がある。思い付きによる作戦は精鋭部隊さえも無駄死にさせる。」と評したそうです。
大和に関わる戦いも含め、国力の差による艦船、戦闘機の数の差に加え、大本営の作戦の拙さなど、日本は勝ち目のない戦いを挑んだのではないか、もっと犠牲者を抑えられたのではないか、という思いが皆さんもあるのではないでしょうか?
変化する戦争
現在も戦争が行われています。現在の戦争は、弾道ミサイル、ドローン、通信技術の発達、核による抑止力など性質が変ってしまいました。日本は80年近く戦争をしていませんが、必ず世界のどこかで戦争が行われています。今後AIを戦争に使おうとしていることなど心配なことばかりですが、戦争以外の方法で紛争が解決されることを祈るばかりです。