私が日本三代怨霊に興味を持ったのは大河ドラマで井浦新さん演じる「崇徳天皇」の鬼のような姿の怒りの姿を見たからです。
その後専門書も買いましたが無くしてしまって自力で調べながら書いてますので稚拙な文章ですが許してください。
【三代怨霊とは】
この世に深い怨みを残し、人に祟りや災いをもたらしたとされる伝説的な怨霊として「菅原道真」(すがわらのみちざね)、「平将門」(たいらのまさかど)、「崇徳天皇」(すとくてんのう)が挙げられ、現在ではこの3人を「日本三大怨霊」と呼びます。
【怨霊を祀る「御霊信仰」とは】
平安時代は、深い怨みを残してこの世を去った人物が怨霊となり、人に害意を加え、疫病や天災を起こして祟ると信じられてきました。現代であれば、こうした異常事態が起きれば、科学の力によって原因究明ができます。しかし平安時代の人々にとって解決の糸口は、怨霊となった人物の魂を鎮めて「御霊」(ごりょう:先祖の霊・怨霊を神格化したもの)として祀ることだったのです。御霊として祀れば祟りは鎮まり、怨霊は鎮護の神になると考えられました。これを「御霊信仰」(ごりょうしんこう)と言います。
さらに鎮魂のため、宮中行事として「御霊会」(ごりょうえ)が行われるようになりました。記録上、最初とされるのが、863年(貞観5年)5月20日に「神泉苑」(しんせんえん:天皇のための庭園)で行われた御霊会です。また宮中行事以外に、京都府をはじめ東京都や神奈川県など、日本各地に「御霊神社」(ごりょうじんじゃ)が建立されています。
無実の罪で左遷された菅原道真
菅原道真は、平安時代初期の政治家であり学者です。わずか5歳で和歌を詠み、学問にも優れ、幼少期より聡明な子供として知られていました。
成長してからは「宇多天皇」(うだてんのう)や「醍醐天皇」(だいごてんのう)に信頼され、右大臣にまで昇進。中国の文化を取り入れるのは時代遅れだと「遣唐使」(けんとうし)を廃止するなど辣腕を振るっていた菅原道真でしたが、優秀なあまり左大臣の「藤原時平」(ふじわらのときひら)から反感を買い、901年(延喜元年)に無実の罪によって太宰府へ左遷されてしまいます。その2年後、菅原道真は都に戻ることなく太宰府で病没しました。
すると都では疫病が流行し、菅原道真を失脚させた藤原時平やその一族、皇族らが次々と不可解な死を遂げます。さらに930年(延長8年)に宮中で落雷が発生し、醍醐天皇がショックを受けて崩御。いよいよ菅原道真の祟りだと恐れた貴族達は、菅原道真の怨霊を鎮めようと「北野天満宮」(現在の京都市上京区)と「太宰府天満宮」(現在の福岡県太宰府市)を創建しました。
生前の菅原道真は優秀な学者でもあったことから、現在では「学問の神様」として信仰を集めています。他にも漫画「呪術廻戦」(じゅじゅつかいせん)に、菅原道真の子孫とする設定のキャラクターが登場するなど、今なお関心の高い偉人のひとりです。
日本三代怨霊②に続く