朝敵として討たれた平将門
平将門は、桓武天皇の末裔ながら下総国を本拠地として、関東地方で勢力を広げた武士でした。それが、関東統一を果たした939年(天慶2年)に平将門は自らを「新皇」(しんのう)と名乗り、朝廷と対立。
しかし、その翌年に朝廷の命令を受けて討伐にやってきた「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)や「平貞盛」(たいらのさだもり)らによって、平将門は倒されました。
平将門の首は、見せしめのために京都で晒し首となります。けれど首は、目を閉じることもなく、周囲に集まる人々に「再び体とつながったならば、また戦をしようではないか」と語りました。
恐がる人々をよそに、首を落とされてから3日後、ひとりでに飛び上がると関東の方角へと飛び、大手町(現在の東京都千代田区)付近に落ちたと伝わるのです。平将門の祟りを恐れてか、落ちてきた平将門の首は埋葬され、さらに塚を建てて祀られました。これが現在もある「将門の首塚」(東京都千代田区)です。
ときは流れて14世紀初頭のこと。関東周辺で疫病が流行し、さらに首塚周辺で災害が頻発していたため、平将門の祟りと再び恐れられるようになります。それが1309年(延慶2年)に「神田明神」(東京都千代田区)に合祀(ごうし:まとめて祀ること)されたことで祟りは止み、戦国時代になる頃には「太田道灌」(おおたどうかん)や「北条氏綱」(ほうじょううじつな)といった関東を治めた武将によって手厚く崇敬されるようになりました。
怒りのあまり怨霊となった崇徳天皇
崇徳天皇は、平安時代末期に5歳で即位した天皇です。しかし、崇徳天皇が皇位を継いだ時代は天皇本人よりも、退位した上皇の方が権力を持つ「院政」(いんせい)の時代でした。
そのため政治の実権は父「鳥羽上皇」(とばじょうこう)が握っていたのです。その上、崇徳天皇は鳥羽上皇の実子ではない噂があったせいか、鳥羽上皇から疎まれ即位後まもなく弟に譲位(じょうい:皇位を譲ること)させられてしまいます。
ついに崇徳天皇は、同じように朝廷に不満を持つ貴族や武士と組み、武力で弟「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)から権力を取り戻そうと「保元の乱」を起こします。しかし戦は失敗に終わり、崇徳天皇は讃岐国(現在の香川県)へ流罪。流罪後の崇徳上皇は「謝罪と反省の気持ちを込めて写経したので、都の寺院に奉納して欲しい」と後白河天皇に写した経典を送りましたが、呪詛(じゅそ:呪い)だと勘違いした後白河天皇によって突き返されてしまいます。この件で、よりいっそう後白河天皇や朝廷を怨んだ崇徳天皇は、8年後の1164年(長寛2年)に亡くなりました。最後は髪も爪も伸ばした異様な姿で、生きながらにして天狗になったと伝わります。
崇徳天皇が亡くなると、「延暦寺」(滋賀県大津市)の僧らによる強訴(ごうそ:武力で訴えること)や「安元の大火」など、朝廷に衝撃を与える事件が勃発。それらは崇徳天皇の怨霊の仕業だと怖れた後白河天皇は、保元の乱の戦場となった春日河原に「崇徳天皇陵」(京都市東山区:のちの[粟田宮])を創建して慰霊しました。
【感想】
私の持ってる漫画「屍姫」にも名前は明かされないけど境遇から崇徳天皇と思えるキャラが出てきます。
また大河ドラマでは崇徳天皇の生い立ちが不憫すぎて怨霊になるのも仕方ないと思ってしまいました。。。
御霊信仰は霊を慰めるために必要だと感じました。