東京大学でピアスタッフの養成講座を受けることが出来る。
その時の入試課題で提出したもの。
厚生労働省等資料を参照すると、障碍者に関する社会に今ある課題として、長期入院患者の地域移行、住民、医療、保健、福祉の連携(繋がりと理解)、親亡き後の対応、意思決定等とある。
それから実際ピア活動をする際にはピアに関する統一的な仕組みがなく、役割と位置づけが不明瞭とある。その中で今、私が課題だと思っていることは二つある。
一つ目は障碍者の意思決定。精神障害者が意思決定をする際いくつかのハードルがある。諦めに基づいた無気力、思考停止、良かれと思っての周囲の心配という名の信頼の欠如、経験の乏しさ、歳を重ねる毎に狭まる社会的選択肢と社会的評価から外れることへの焦りと恐怖、諦め。その一方で普通になることへの恐れも混在し、一つ一つ解いていかなければ前に進めない。
けれど、この葛藤は障碍者だけにあるものなのか。
健常者の成長と障碍者のリカバリーは何が違うのか。人が求めているのはどんな形であれ幸せになることではないか、ならば、障碍者を特別なものとして庇うのではなく、障碍者という区別さえも生まれない社会に出来ないか。
人は皆異常性を持ち合わせている。その凸と凹を埋め合わせてフラットに生きやすくする。この際、
教育の分野に助けを求めたい。
障碍者として区分することなく社会を構成し、成長する一、個人として子どもの頃から生きがいを見つける手助けをし、学校教育と社会で必要なスキルを明確にし、リンクさせる。
子どもの頃意識に留めなければ自然と消えていく心疾患は多い。傾聴と対処の力不足で障害者に陥る子を減らす、更に障害を生かし、また凸と凹を補い合える環境を創生していく。それら社会に働きかけることもピアスタッフに出来ることではないか。障碍者と線引きすることなく人として幸せに向かっていく道を塞ぐ、社会通念を変えるきっかけがこの意思決定の課題の中に内在していると思う。
もう一つは各分野を繋げて理解を得ること。わたしは中学校でいじめに遭いいじめっ子たちと話し合いの場を設けて欲しくて精神科を訪れた。私の中では先生と呼ばれる人たちは繋がっていて子どもたちの成長の為に助言し合ってくれるものと思っていたけれど、社会は繋がっていなかった。鬱だと診断され薬を渡されただけだった。あの時環境に働きかけ、助言と励ましがあったなら、導いてくれる大人がいたなら、薬を飲むことも薬を飲むことで多くの選択肢を諦めることもなかったのだと思うとき、自分がそんな大人になりたいと思う。中学生の私が当たり前にそうだと思っていた、
繋がる社会をこの目で見てみたい。
それを具現化するにはつまり、話を傾聴すること。専門家のする統計学的な画一的対応ではなく、一人一人に合った試行錯誤を患者とともに時間をかけて試していくそれが専門家ではなく、ピアスタッフにできる付加価値だと思っている。
2019年2月