箱根駅伝の歴史

正月恒例の「箱根駅伝」は、「これを観ないと一年が始まらない」という人が出てくるほど定着しました。往路5区の山登りを驚異的なスピードで駆け登り「山の神」と呼ばれる選手が出現したり、脱水からふらふらになりながら襷をつなごうと懸命に走る姿に心を痛めたり、悲喜こもごものドラマが展開されます。去年の第100回大会が行われるまでどのような歴史があったか調べました。

駅伝の歴史

まず駅伝の歴史は、奈良時代に中央と地方を結ぶ幹線道路に整備された「駅制」がルーツとされています。駅制とは、使者と馬が中継所をつないで中央の文書を各地へ送り届ける制度です。鎌倉時代には「飛脚」が登場し、約500㎞離れた東京と大阪を3~4日で走ったそうです。飛脚は一人で約500㎞を走るのではなく、約10㎞を交代して走っていました。

1917年、遷都50年記念として京都三条大橋から東京・上野不忍池間508㎞を23区間に分け、4月27日から3日間で走った東西対抗の「東海道駅伝徒歩競争」が駅伝の始まりです。「駅伝」の名は、主催者読売新聞社の土岐善麿社会部長が東海道五十三次にちなんでつけたと言われています。

箱根駅伝の誕生

そして、箱根駅伝が誕生したのは、1920年(大正9)にさかのぼります。創設の原動力になったのは、マラソンの父として知られる金栗四三らの「世界に通用するランナーを育成したい」との思いでした。

1920年2月14日午後1時に第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称でスタートしました。四大校とは早稲田大学、慶応義塾大学、明治大学、東京高等師範学校のことでした。現代では、この4校を指して「オリジナル4」と呼ばれます。

2年後の第3回大会では出場校が10校に増え、名称も「十大校駅伝競走」となりました。現在ではお馴染みの「予選会」が初めて実施されたのは1947(昭和22)年の大会です。それから徐々に参加校を増やし、2024年1月開催の第100回箱根駅伝では、シード校10校と予選通過13校の合計23チームが出場しました。

ちなみに、予選会で落選したチームから選ばれる関東学連選抜チームは第79回(2003年)から参加が認められるようになりました。ただし、第100回大会では結成されませんでした。

これまでの最多総合優勝校は14回の中央大学で、最多出場校も97回の中央大学です。(第100回大会予選会終了時点)

「箱根から世界へ」

「箱根から世界へ」を体現した選手としては、瀬古利彦(早大)、大迫傑(早大)、服部勇馬(東洋大)、三浦龍司(順大)などたくさんいます。金栗さんの「世界に通用するランナー」を育てたいという夢は実現しつつあります。

今では学生三大駅伝として、「出雲全日本大学選抜駅伝」、「全日本大学駅伝」と共に「箱根駅伝」は学生ランナー達の世界への登竜門になっています。

来年も2025年1月2日から1月3日に第101回箱根駅伝が行われます。どんなドラマが繰り広げられるか、今から楽しみです。

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Jack

他の人より遅れて某大学に入学しました。物理学を専攻し修了までこぎつけました。それだけが取り柄です。サイエンスについて書かせていただきます。

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