高校野球の歴史

すっかり夏の風物詩となった高校野球ですが、当初は戦争の影響を受けたり、最近は新型コロナで大会が中止になったりと社会情勢の動きに翻弄されてきました。高校球児の夢の舞台「高校野球」の歴史について調べました。

高校野球の始まり

第1回は1915年、「全国中等学校優勝野球大会」の名称で10校が参加して、豊中グラウンドで開催されました。当時は第一次世界大戦の最中で、大隈重信が首相をつとめていました。1915年8月23日に決勝戦が行われ、京都二中(現・鳥羽)と秋田中(現・秋田)の対戦となりましたが、投手戦の激戦となり、九回を終わって1-1で延長戦に入りました。十三回裏1死二塁で内野への打球の間に京都二中の走者が本塁へ還り京都二中が「サヨナラ」勝ち。京都二中が第1回大会の優勝校となりました。

1924年に「聖地」甲子園球場(当時は甲子園大運動場)が完成。(2024年には100周年の記念事業が行われました。)

その後、太平洋戦争が始まった1941年は地方大会だけ実施され、翌年から4年間中止になりました。1946年、全国中等学校野球連盟(現・日本高等学校野球連盟)が発足し、西宮球場で大会は再開されました。1947年に7年ぶりに全国選手権が甲子園球場に戻り、翌1948年に大会名が現行の「全国高等学校野球選手権大会」に改称されました。

戦後の高校野球

1950年代はまだ戦後の色合いが残っていましたが、現在の高校野球の原型が少しずつできていく時代となりました。1952年にはポジションを示す「背番号」を初めてユニフォームにつけてプレーし、1953年には初めてテレビの実況中継が始まりました。

金属バットが初めて使用を認められたのは1974年で、この時から本塁打数が一気に増加しました。1980年代に入ると金属バットの威力が増していき、「やまびこ打線」の呼び名で池田(徳島)が1982年に全国制覇を果たしたり、「KK」と呼ばれた1年生コンビ、桑田真澄と清原和博らの活躍でPL学園(大阪)が1983年全国制覇を成し遂げました。

1990年代では、1992年に新聞やテレビを賑やかにする現象が起こりました。明徳義塾が星稜(石川)の4番松井秀喜を5打席連続敬遠したのです。松井は一度もバットを振れず、試合は3-2で明徳義塾が勝ちました。明徳義塾の校歌斉唱の時はスタンドから「帰れ」コールが起こり、しばらくの間、作戦の是非から高校野球の指導者論まで議論が交わされ続けました。

2000年以降は、真夏にプレーする選手の健康管理の必要性が議論され、2013年からは会期中に休養日が設けられるようになりました。最近では、新型コロナの影響で2020年の大会が中止になり、2024年からは新基準の低反発バットに移行しました。このため、本塁打数が激減することになり、ロースコアの接戦が増加しました。

高校野球からプロ野球へ

高校野球でスーパースターとして騒がれ、プロ野球の道へ進み一軍で活躍した選手としては、桑田真澄(PL学園から巨人)、清原和博(PL学園から西武),松坂大輔(横浜高から西武)、田中将大(駒大苫小牧から楽天)など枚挙に暇がありませんが、最近では高卒でドラフト上位指名にもかかわらずプロで伸び悩んでいる選手も見受けられます。例えば、根尾昴(大阪桐蔭高から中日)、安田尚憲(履正社高からロッテ)などドラフト複数球団指名にもかかわらず期待通りの結果が得られていないと思われます。まだこれから活躍する可能性もありますが、高校野球の名門校ではプロ野球のような先進の科学的トレーニングが取り入れられ、高校生の段階でマックスの実力を出し切ったという見方をする専門家もいます。

プロの世界に進むにせよ、進まないにせよ、高校生がひたむきに白球を追う姿はこれまで同様プロ野球とは違った魅力を作り出していくと思います。高校野球の発展を願っています。


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Jack

他の人より遅れて某大学に入学しました。物理学を専攻し修了までこぎつけました。それだけが取り柄です。サイエンスについて書かせていただきます。

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