十五年前の主張を改めてしよう。
流行とは多くの人がそれを心地よいと感じる風潮のことである
15年前、私はある流行のただなかにいて、もがき苦しんでいた。これはその時の手記である。
まず、美人とは存在しない。
平安時代美しいとされたのは下膨れにおちょぼ口切れ長の目に低い鼻筋白い顔
いわゆる中国朝鮮系の顔だ。明治時代に入ってからは秀でた額に大きな目高い鼻筋に高い頬骨小さい顔、いわゆる西欧系の顔立ちだ。
そこから何が読み取れるか、
美人とは異国への憧れから生まれた概念に過ぎない。
以前、外国に行けたのは知識人であって”偉い人”が書いた書物が主要なメディアであった。
異国へ渡った彼らは、ヒールを履き颯爽と意思強く歩く女性たちをどのように描写しただろうか、ブロンドの髪、通った鼻筋、ブルーの瞳、それら外形でしかない。
本来「美しい人」として描かれたそれらを書面をみて美人とはこういうものだと、庶民は外形を記憶してしまったに過ぎない。そもそも時代によって流行る美人は変わってきただろう。
つまり、美人とは異国への憧れから生まれた概念であって、そもそも存在しない。
この世にいるのは、「美しい人」と「そうではない人」だけだ。
それに人の目の見え方は光の取り入れ方で変わるし、美しさの感覚も要は光と影の作用に過ぎない。美しさに対して人の反応が違うのはそもそも目の光の取り入れ方、見え方が違うのだ。
にも関わらず、現代人は美人を定義して生きている。
美人は得していると言って被害者意識で責める女どもがいるが、本当は真逆である事実を提示しよう。
マイノリティには少数派とともに、差別されるものという意味がある。
美人も障害者、被差別部落同様マイノリティである。
昔のイメージで言えば不良は美人が多いと言われていた。なぜか?
美人は教師に学力面で期待を掛けられることが少ない。
ハーバード大学が行った実験がある。
教師には学力検査だと言って、子どもたちに試験を受けさせ、適当に子どもの名前を上げこの子らは優秀だと説明した。
教師はその選ばれた子たちに目を掛ける様になり、結果的にその子らの成績が上がったのだ。
学力検査は全くのでたらめであったが、教師が”期待”する様になった子どもたちの成績が上がったのだ。
声掛け、微笑み、期待に満ちた眼差し、叱咤、子どもたちはそれらを感じ取る。
余談だが、その真逆が起きると虐めが誘発される。それらから身を守るため気の強さを演じなければならなくなる子もいるだろう。
ブスはかわいそうだねと憐れんでもらえる。美人は憐れまれることさえ許されず、自分で強くなっていくしかない。
結果美人の性格は二極化する
バリバリ竹を割ったような性格、キャリアウーマンの付いて行きます姐さんか、なよなよ男にべったりであの子だめよねえ~な子か、
どちらかにキャラ分けできていなければ虐められてる
普通の美人って聞いたことがないだろう。
見た目に少しの不安を抱えた一番になれないと思い込んでる子たちが美人の居場所を練り上げていく。
周りからしたら安心できないのだろう。
何もしなくても自分より優れているいけすかない奴と思っているから。
それすらも勘違いなのにね。
美人を見るとき人はどっか悪いところないかな?から入る
女子大の子はハッキリ言ってきたよ。美人で賢いとかムカつくって、
私が何をした?何もしていなくても煙たがられた
小学校に入学したあの時から、生きる意味を失い、死を嫌う神の前で何故生きるのか、問い続けた日々だった。
綺麗可愛い美人と言って近づいてきては裏切られた、
まあ、これは私情だ。
社会に目を向けよう。
芸能界という、界の中の鳥小屋にいれば生きやすさ、というよりは居場所を得られたりはするのだろう。
もし、仮に、芸能人と同じような外形のものが同じ職場にいて、自分と同じ人を好きだとしたら、あなたはどう反応する?
表面上は親しくなろうとするだろう、だが、その腹の中は?
アイドルと祭り上げて違う空間の生き物だと線引きすることのできない境遇になった時、
自分と比べる意識が芽生えた時、
どうしても手に入れたいものがあった時、排除するために噓の噂を作る人間を私は目の前で何人、何十人といや、街の人ごみの中何百とみてきた。
美人は不幸のシンボルでいなければ受け入れてもらえないのか、
姉に教わった、人は自分が心地よくいられる人と仲良くしたいと思うんだよって、
当たり前のこの原理が私には針の筵に思えた、
社会の中にある見た目に高低差をつける感覚が消えない限り、友達が出来ることはないのだと、私はダイアナが欲しかっただけなのに。赤毛のアンシャーリーに出来た親友のように。
若い時友人もおらず、教師から目を掛けてもらえず、むしろいじめの標的にされ就職先も顔を売る接客とかが関の山で、時に整形呼ばわりされ、排除され、年老いて美しさも失ったとき、何も手に出来なくなる、それすらも勘違いした女どもにとってはざまあみろと笑いの対象に過ぎなくなる
虐めについてずっと考察してきてマウスの実験の論文を応用してみた
結論だけ述べると、
挙動不審なものやブスや美人等目立つもの、目に留まるものを見た時、ヒトの瞳孔は開く。
それ以前に、怒りを感じた時も同様で、記憶の誤変換が起こる。
別のことで怒っていたのに、目の前でキラキラしている美人に憤りが転換されてしまうのだ。怒りが置き換わってしまうから美人は嫌われやすい。
周囲は自身の身勝手な怒りを正当化する為にあらゆる手段を使うが、
自分の行いを恥じることも反省することもない人間が多い。
少なくとも美人を貶して反省している顔面中途半端を私は見たことがない。
それは美人は得をしているという思い込みだ。少数派の美人を追い込んで自分たちが得をするために脈々と受け継がれてきた思想。
そもそもあなたが特別視して区別しなければ美人が特別になることは無いのに、自分たちで祭り上げておいて、美人ばっか得して!というのはお門違いも甚だしい。
美人に起こるシンデレラストーリーが色んな童話や民話、落語や小説に語り継がれてきたのはそれが滅多に起こることではないから面白く、珍しいものであったからだろう。雨月物語を読んでみたら?落語を聞いてごらんよ、グリム童話の原作は実は実母からの仕打ちであったこと、母でさえ美しさに嫉妬するのだ。
悲しみの中もがいてきた人の輝きを一瞬輝いたその剥がれ落ちた鱗を眺めては、それすらも欲する顔面中途半端の貪欲さには背筋が凍る。
だが、改めて主張しよう。美人とは存在しない。
得をしてもいない。
ただあなたが祭り上げなければ、同じ人であることに変わりはないのに、
目の前にいるあなたのその言葉で、表情で、態度で心は揺れ動く美人だからどうせ得をしてるから何を言ってもいいやとか辛辣に当たってもいいやとか、そんなただ整った顔だからといって打たれ強いわけないじゃない。
見た目の役割意識を取り払って、
顔面中途半端は美人を貶して自分を守ろうとする無意味なことをする必要もないし、美人も自分が特別だなんて思うこともできないよ。
みんな同じ人であるのだから、
「美しい人を目指していこう」見た目の役割意識を取り払って、みんなが最高のパフォーマンスを発揮するようになったら
その先に日本国民総エリート計画の話をしたんだ。