※東日本大震災時の内容が含まれています。気分を悪くされる方は閲覧を控えていただきますようお願いいたします。
筆者は学部4年生の時、サイクロトロンラジオアイソトープセンター加速器研究室に所属していました。担当はイオン源で、イオン源から発射されるイオンのビームの強さをできるだけ強くするという研究をしていて、そんな中、出来の悪かった筆者が卒業の単位をぎりぎり揃えた頃の出来事です。
東日本大震災 発災
2011年3月11日14時46分、筆者はサイクロトロンの制御室で助教さんと卒業研究発表会のための実験を行っていた最中でした。微かな揺れを感じ、すぐに助教さんの携帯の緊急地震速報の音が鳴り響きました。激しい揺れになり、制御室にいた人は皆テーブルの下に潜り、身を守りました。一旦揺れが収まりかけましたが、再び激しい揺れが襲い、筆者にとっては非常に時間が長く感じられました。周囲の棚の書類などは床に散乱し,その後、筆者は外に出てセンターの同僚たちと避難場所で指示を待っていました。助教さんらスタッフはこのような事態の際のマニュアルがあるようで管理区域(放射線を一定量浴びる可能性のある区域)の中に入り、被害状況を確認しているようでした。
避難場所で待っていた筆者は、誰かが持っていてポータブルテレビで被害を受けた仙台駅の様子を見、そして青葉山の上空をヘリコプターが飛んでいました。全く心細い思いの中、年配の方は「30年前もこうだった」と言い、1978年の宮城県沖地震と記憶を重ねているようでした。
午後4時半ごろ、解散となりましたが筆者は歩くしかありませんでした。道の詳しくなかった地域を通るため遠回りしながら3時間弱歩いて帰りました。住んでいる家は無事なのか、それ以上に家族は大丈夫なのかというおもいを胸に懸命に早歩きをしました。幸い家の近くまで行くと心配した父が車で迎えに来て、母と家の無事を知りました。
家に帰ると、元自衛官の父は蝋燭を2本ほど立て居間を照らしていて、カセットコンロで夕食を作っていたようでした。
サイクロトロンと筆者の学生時代
ところで肝心のサイクロトロンですが、機械を水平に保つ台の支柱が折れ、その他大きな被害が出ました。機械が水平でなければ、イオン源からでた粒子が計算通りの軌道を飛ばず、使い物になりません。
そして、大学院の修士課程に進学したある日、助教さんが「サイクロトロンの修理の予算を文部科学省がつけてくれるそうだ」と言い、結局、サイクロトロンが再び稼働したのは2012年7月のことでした。研究対象がイオン源だったとはいえ、イオン源の立ち上げもできなかったため、実験をするときは必ず助教さんにイオン源を立ち上げてもらわなければならず、もっとまじめに研究に打ち込んでいれば、と反省する次第です。とは言え、それまでよりもイオン源の能力を高度化する、という実験の目的は達成する事は出来、修士論文の最終審査にも通り、修士課程を修了することはできました。
この時は、40代初めで身体の調子も良く研究室に2泊くらい連泊しても大丈夫なくらい意欲的でもありました。20代の頃から病気を患っていたため大学生から院生の6年間は筆者の人生においてとても重要な意味を持つ期間となりました。