1963(昭和38)年6月の全米チャートでNo.1を記録し(ビルボード誌Hot100・6月15日付から29日付まで3週連続)、日本人アーティストによる日本語の楽曲として今日まで唯一の偉業を成し遂げた、九ちゃんこと坂本九さんの“Sukiyaki”=「上を向いて歩こう」(日本ではこの2年前にリリースされ、ヒットしていた)。
その時期、“Sukiyaki”の前と後、チャートNo.1に輝いていたのはどんな曲だったのか。
あわせてその2曲を聴くだけで、「上を向いて歩こう」の聴こえ方が、少し違ってくるかも……?
この時期の全米チャート上位には、後世に名を残す名曲たちが名を連ねている。
たとえば2月にはポールとポーラの「ヘイ・ポーラ」、4~5月には後に映画『天使にラブソングを…』でも再認識されたリトル・ペギー・マーチの「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」、そして8月には、これが少年時代の出世作となったリトル・スティーヴィー・ワンダー(当時)の「フィンガーティップス Part 2」(ライブ録音)が、それぞれ首位を獲得している。
さて、“Sukiyaki”の前、No.1にいた曲は
レスリー・ゴア(ゴーア)の
「涙のバースデイ・パーティ」
(It’s My Party)。
パーティーの主役は私なのに、彼氏が別の女の子と手をつないでやって来るなんて。
しかも彼女の指には、彼から贈られた指輪が!
もしあなたが私だったら、きっと泣くでしょうね、今の私みたいに。
明るくポップな曲調に、かなり悲惨な状況の歌詞がつけられた、ユニークな1曲。
プロデュースはクインシー・ジョーンズ、間奏のあたりでかなり張り切っているドラムスは名うてのセッションマン、ハル・ブレインが叩いている。
そして“Sukiyaki”を破った曲は、当時アメリカ海兵隊に在籍していた異色の男女3人組・エセックスの
「内気な16才」
(Easier Said Than Done)(言うは行うより易し)。
「口にするのは簡単だけど…」、と訳すこともできそうな、片想いの軽快なラブソングだ。
ビートルズがアメリカに上陸する前年。
陸軍を除隊して3年が経った王者・エルヴィス・プレスリーの人気には、復帰当初はうまく行っていた映画中心の活動も、その安易な造りのせいでかげりが見え出し、スイートなティーン・ポップスが全米チャートの主流となっていたそのただ中に、“Sukiyaki”は突然現れたような形となった(余談だが、九ちゃんはエルヴィスにあこがれて日本の芸能界に入り、そのエルヴィスは“Sukiyaki”を気に入っていたという)。
面白いのは、それぞれ歌詞に注目してみると、3曲ともどちらかというとアンハッピーな内容である、ということ。
ご存知の方も多いかとは思うが、「上を向いて歩こう」の歌詞は、作詞の永六輔さんがとある女性の家に「娘さんを僕にください」、と伝えに行って断られた、その帰り道での心情をベースにしたものである。
当時、“Sukiyaki”はその歌詞の内容についても紹介されることがあり、だから何となく「失恋の歌なんだ……」と認識していたリスナーも少なからずいたようだ。
1965年の来日公演以降、すっかり日本びいきとなったベンチャーズをはじめ(偶然ではあるが、ベンチャーズにとって“Sukiyaki”は「初めてレコーディングした日本製の楽曲」になった)、“Sukiyaki”をカバーしたアーティストは枚挙にいとまがないが、その後も“Sukiyaki”は2度、全米チャートを賑わせている。
1981年には女性ソウル・ヴォーカル・デュオ、テイスト・オブ・ハニーで最高位3位、95年には男性ソウル・ヴォーカル・グループ、4 P.M.で8位まで上昇している(いずれも歌詞は英語。九ちゃんも一応、英語でもレコーディングを行い、コンピレーション・アルバムの1曲としてアメリカでリリースされたとのこと)。
結局、アメリカでの九ちゃんは、“Sukiyaki”を超える成果を出すことなく、その活動を終える形となったが、今日で至るまで数多の日本のアーティストたち(1979年、英語の楽曲でトップ40入りを果たしたピンク・レディーも含まれる)が挑んできた全米チャート第1位、その第1号として、九ちゃん=坂本九の“Sukiyaki”は、永遠にまばゆい輝きを放っている。(了)
☆本稿を、坂本九さんの奥さま・柏木由紀子さん、およびお二人のお嬢さま・大島花子さんと舞坂ゆき子さんに捧げます。