ニュージーランド滞在記

20年以上前、私は知り合いのいるニュージーランドへ母と行った。知り合いといっても私の知り合いではなく父の知り合いであったが。ニュージーランドに知り合いといってもニュージーランドに特に行きたいと思っていなかったが、自分が行きたい国に行けそうになかったのと、母(母も病んでいた)がいても話しかけてこなかったから、いいやくらいに思って行ったこの頃、双極性障害になり、一人でいたかったのだが、一人で海外なんて許されなかった。一月に行ったが、ニュージーランドは南半球なので、夏だったが、思ったより寒く、フリースがいる日もあった。しかし、時にはTシャツ一枚でいける日もあった。夏がない国なのかなと思ったくらいだ。私たちは、ニュージーランド航空で、関空からクライストチャーチに飛んだ。飛行機に乗るのは、まだ3回目だったので、中で緊張したが、サービスで出されたアイスクリームが死ぬほど美味しかった。それはニュージーランドとオーストラリアにしか店舗がない、とても美味しいアイスクリームで、その時私は、ハーゲンダッツより美味しいと思った。帰りの飛行機でもでるかなと思ったが、あまり美味しくないアイスクリームで(多分スーパーで売ってるやつ)が出されたので、残念だった。現在はネットでも買えるので、アイス好きの方はぜひどうぞ。

昔はクライストチャーチへの直行便があったが、現在は、直行便はオークランドへの便しかないらしい。首都はウェリントン、国内最大都市はオークランドである。ニュージーランドに着いて、すぐに観光をした。ガイドブックにも掲載されている、エイポン川の運河の川下りをゆったりした。知り合いというのは、クライストチャーチに住んでいる、姉が何度かホームステイでお世話になっているお歳を召しているご夫婦だった。正直お互いに、英語も日本も話せなかったので、気まずかったが、おじいさんは、広い庭でBBQをし、分厚いお肉を焼いてくださった。オージービーフは堅かったが、手厚くもてなしてくれたので、一生懸命お肉を食べた。お菓子も出されたが、砂糖がたっぷりついたクッキーみたいなのは、甘いのがそんなに好きではない私は、失礼だが、途中までしか食べられなかった。こうして、半日くらい、お宅に滞在したあと、さらに観光をして、私たちはオークランドへ飛行機で移動した。実は、父も心配だからと、4日ほどニュージーランドに一緒に滞在し、その4日で自分の目で私が頑張れるかが確かめたかったようで、不安そうではあったが、納得して帰国した。

そして、私と母は老夫婦の息子さんとその奥さんが住んでいるウェリントンに移動した。私たちは初対面だった。

私と母は予め、その知り合いに決めてもらっていたアパートに暮らすことになった。語学学校にも行かなかったので、友人はできなかったが、一人になりたいと思っていた私には、ちょうどよかった。

ウェリントンは首都でありながら、あまり観光するところがなく、観光客はいなかった。しかし、景色は素晴らしく、ニュージーランドの人口510万に対し、私が滞在したウェリントンはおおよそ人口が、20万人だそうだ。だが、見所もあり、ハチの巣のような形をした国会議事堂があった。小さくて、わたしはかわいいと思った。入ることは、もちろんできなかったが。

アパートはシングルベッドがふたつと、ダブルベッドがひとつの2Kの部屋だった。ダブルベッドで寝るのは初めてで、ベッドの上で、はしゃいでしまった。アパートにはそれなりに満足した。でも、電球が切れて、100Wの電球に変えてほしかったがなんと、60Wの電球に変えられて100Wの電球に変えてほしいとつたない英語で言ったが、無視されて暗い部屋での生活を強いられた。日記を書くのも辛い明るさであった。

近所になれるまでの暫くは歩いて行ける範囲を観光し、お土産を買ったりした。だんだん慣れてくると、緊張はしたが、バスにも乗れるようになった。

ウェリントンは、ウェリントン港という美しい海に面しており、そこから、フェリーが1日に何本か出ていて、私はそれに乗って、違う港に行って、誰もいないビーチで、ひなたぼっこをした。日焼けはしたくないので、日焼け止めをしっかり塗り、顔にタオルをかけ太陽のダメージを受けないようにしていた。この時は至福の時だった。それまでの苦しいことを一時的でも全部忘れられて、幸福感があった。何もしないという幸せがその時にはあった。今はなにもしないなんて考えられないが。国が65歳まで働けと言っているから逃げられない。あと、海が透き通っていて、海底が見えるところもあったが。私には泳ぐという選択肢はなかった。泳ぎが下手なのと、泳いで日焼けしたくなかったからだ。今でも、母が撮影した私が日向ぼっこしている写真が残っている。

フェリーに乗って気持ちいい気分になっていた時、ずっと憧れていたあることを思い出した。以前、沢木耕太郎の若い時のバックパッカーで世界を周ったエッセイを読んでいて、沢木耕太郎が香港かどこかで、フェリーに乗りながら、ソフトクリームを食べて満足しているシーンだ。それが叶う日がきた。フェリーの前にフードコートがあって、そこのマクドナルドに50セントのソフトクリームが売っていて、わたしは、一目散にそれを買いに行き、出発前ぎりぎりのフェリーに乗った。50セントと安いからか、その日が暑かったからか、ソフトクリームはどんどん溶けていき、夢の時間は数分でおわったが、私はおおいに満足であった。

毎朝、朝ごはんを食べる時、テレビを点けたが、英語が分からないので、つまらなかったが、子供が見るアニメを見ていたからか、毎日見ていたら、2か月くらいたったら、聞き取れるようになってきて、そのアニメが面白くなってきた。もし、もっと長くニュージーランドにいたら、すこしは英語を喋れたかもしれない。

滞在中は、母がご飯を炊いてくれていた。炊飯器がなかったので、鍋で炊いてくれていた。多分毎日ご飯を食べていなかったら、長くはニュージーランドにいられなかったであろう。お昼は、毎日同じサンドイッチをちょっと遠いが、徒歩で行けるサンドイッチ屋さんに買いにいっていた。だんだん、店員さんも「今日もきたね、同じやつだね。」という感じで、袋に入れてくれた。そのころ日本にはまだないような、フランスパンでサンドしたボリュームのあるサンドイッチで、私ははまっていた。そこのサンドイッチ屋さんの店員さんは、愛想がよかったが、観光客目当てのお土産屋さんの主人はやる気なしの商売っけのない人もいた。

どうせ、名産のキウイワインや羊の毛布とかが勝手に売れると思っていたのだろう。まあ、まんまと私の父はそれにはまっていたが。キウイワインと羊毛のラグがたくさん売れていたのは本当だ。基本的にニュージーランドのお店をやっている人は笑顔で接客しない。気分でニコニコ笑っているかんじで商売をしているように思う。バスの運転手も何が面白くないのか、笑顔を見せることはなかった。

フードコートに行ったこともあった。店員さんに「学生ですか?」と聞かれ、私は日本で何もしていなかったので、どう答えようかと思ったが、思わず「はい」と答えてしまった。多分、語学学校とかにいっている留学生とかに思われたのだろう。なんだかちゃんと答えられた安心感と語学学校に行っていなかったのもあって、嘘をついたのが申し訳ない気持ちにもなった。

暇な日が続いたが、母と「地球の歩き方」に掲載されているステーキのお店に行ってみた。(この頃は、海外旅行のガイドブックと言えば、「地球の歩き方」しかないのではと思うほど「地球の歩きかた」を真っ先に日本で買っていた。)歩ける距離だった。ウェリントンはとても小さい街で、スーパーや繁華街もアパートからすぐに行けるところが多かった。私たちは、お店に入ったが、時間が早かったせいか、お客さんさんが誰もいないくて、お店の人が、私達が「地球の歩き方」を持っているのを見て、笑顔でテーブルに案内してくれて、メニューも写真入りで、焼き加減を聞いてくれて、私達はミディアムしか分からなくて、「ミディアムで。」と答えた。出てきたステーキは、私が注文したのはTボーンで、ものすごく硬くて、すごく噛み切るのに時間がかかった。結局、それほどおいしくなく、よく言われていた「地球の歩き方」に掲載されているお店は、まずいかそれほどおいしくないかのどちらかで、言われていることは当たっていた。

違う日に、ランチにおしゃれなお店に行った。どうしても私は入ってみたかった。そこは、地元のお店で、美味しいかわからなかったが、入ってみた。どこにでも座ってと、少々無愛想だったが、こういうローカルなお店に入ってみたかったので、勇気をだして、母とそのお店にはいったのだ。ランチのメニューはこっちよとだされ、英語ばかりのメニューの中から、適当に母とシェアするために、2種類選んだ。飲み物を頼む時は緊張した。メニューを指で指させばいいのに、コーヒーを飲みたかったが、コーヒーをネイティブ風になんど言っても通じないので、オレンジジュースをネイティブ風に言ったら通じたので、オレンジジュースを二つ注文した。母は私任せで、私が全部やらなければいけないというプレッシャーがのっかってきたようなランチだった。だから、食べたものを忘れたのだろうか。

もちろん、毎日外食をしていたわけではなく、大手のスーパーにも行った。まず、カートがとても大きなタイプしかなく(大人一人が余裕で入れる大きさ)、お肉は薄切り肉が売っていなかった。飲み物にしても牛乳が3ℓ入っているようなプラスチック製のものしかなかった。お酒コーナーには日曜日はネットがかけてあってニュージーランドでは、日曜日はスーパーや商店でお酒を売ってはならなかった。一般的に、お酒の販売は午前8時から午後11時まで許可されていた。ワインやクラフトビールをはじめとする多様な種類がある。リンゴや洋ナシを使ったサイダーというものがある。私はお酒よりニュージーランドアイスクリームを買いたかったが、スーパーには売っていなくて、サーティーワンみたいに、ちゃんとお店に行かないと買えなかった。あと、この時、初めて野菜売り場でアボカドを買って食べた。あんな大きな種が入っているとは知らなかったので、初めはどうやって切るのか分からず、この時は四苦八苦した。生で食べる以外に食べ方がないと知ったのもこの時だ。味が濃厚で、私は好きになった。だが、アボカドはニュージーランドの名産でもなんでもなく、ニュージーランドと言えば、海に囲まれているのでシーフードがおいしいらしい。しかしウェリントンには、びっくりするくらい、観光客目当てのレストランも、地元の人が入るレストランもなかった。

近所に映画館があり、暇だったのでよく一人で行った。アパートがとっている新聞に、映画名と時間が掲載されており、私は何本も観たと思う。一番覚えているのが、「ショーシャンクの空に」を鑑賞しようとした時、(1995年に日本では公開していたが私は知らなかった。ニュージーランドでの公開は大分遅かったようだ)向こうでは「ショーシャンク」という題名でやっていて、その「ショーシャンク」が中々通じなくて四苦八苦した。どの言い方をしても通じないのだ。最後はポスターを指さして、チケットを買ったと思う。ちゃっかり、学生料金で観ていた。学生証とかその時はいらなかった。その映画は、その時が初見だったが、3時間以上の大作で、英語が分からなくても、感動したのを覚えている。映画が終わってまっすぐ家に歩いて帰ったら、母がアパートの一階のフロアで心配そうに待っていた。私は「大丈夫だよ。映画の時間が長かっただけだよ。」と母を安心させた。

この頃、姉がオーストラリアに留学していたので、ニュージーランドに来てくれて、私達は全て受け身なので、飛行場からタクシーでアパートまで来てくれた。1,2泊して帰ってしまったが、私は母だけでは不安だったので、来てくれて本当に嬉しかった。その頃、スマホはもちろんなく、デジタルカメラもなく、フィルムのカメラで、タイマーで、3人で写真を撮ったことも覚えているし、アパートの屋上で姉と楽しく話したことも覚えている。

テレビを観ていてもよく分からなかったが、何度も再放送されていた、91年に公開された消防士の感動的かつ火の迫力が凄い映画「バックドラフト」がテレビでやっていて、英語が分らなかったけれど、何度も再放送を見るたびに、内容がわかってきた。今観るなら、吹替ではなく日本語字幕で観たいなと思う。

私は、子供のころから切手収集をしていて、郵便局を真っ先にみつけた。頻繁に行って特殊切手を徐々に買い集めていた。特殊切手はばんばん発行されていたので、郵便局にいくのも大変だったし、お金にも限界があったので、すべての切手を1枚ずつ買うことにした。私は、「この切手を1枚ずつください。という英語が分からなかったので、欲しい切手を指さして、「ワン、ワン、ワン、ワン。プリーズ」と言って買っていた。郵便局のひとは笑いながら、切手を売ってくれた。行ったらまた来たなと、にこっとしてまたワン、ワン、ワンの繰り返しであった。いまでももちろんその時の切手は大切に保管している。

アパートの近くに日本語古本屋さんがあり、見た目も古く、英語しか話せない主人がいつも行ったら座っていて、私は恥ずかしくて、いつもおじぎをして、古本を選び、買っていった。ファッション誌もあったが、それを買うのは、なんだかもったいないような気がしてやめた。ほか、ニュージーランドとは関係ないが、クマやデビルのかわいい小さいぬいぐるみを買ったりもした。何屋さんなのかは、分からなかったが、いつもお客は私だけだった。そのぬいぐるみたちは、引っ越しの時に涙をのんで処分した。

ある日曜日の朝に海辺の港で、朝市をやっていた。朝市と言っても、素人さんが自分のいらないものを売っている、食べ物の朝市ではなかった。私は、人が使ったものを使うのが苦手だったが、食器のデザインが独特で、食器を買った。今も持っている。

違う日は、ニュージーランド最古のウェリントン動物園に母と行った。目的はニュージーランド固有の動物キーウイを観に行くためだった。動物園は思ったより小さく、キーウイのいるところに行ったら、キーウイは夜行性らしく、入っているガラスの箱も真っ暗で、何も見えなかった。声も聴けず相当がっかりしたのを覚えている。ライオンやキリンもいたが、あまり興味をそそられなかった。。バスで行ったのだが、バスには、私と母と青年しか乗っていなくて、その青年が日本語を勉強しているらしく、話しかけてきてくれた。彼とはそれきりだが、一期一会もいいものだなと感じた。

ウェリントンに1か月程いたころ、ニュージーランドを南北横断の旅をしようと行動した。クライストチャーチまで飛行機で戻って、そこからバスで、まず真ん中のテカポに一泊して、最後はオークランドまで行って、また飛行機でウェリントンまで帰ってくという、2泊3日の旅にでた。ウェリントンの駅で、飛行機とバスのチケットを買い、意気揚々となんの不安も持たずに旅にでた。まずは、家の近くから、ウエリントン飛行場に向かってバスに

乗った。そして、飛行機にのって、クライストチャーチに向かった。首都であるウエリントン空港は、ニュージーランドでは、北島南端に位置しているオークランドにつぐ、主要な国際空港である。その後、クライストチャーチに、降り立って、

そこからバスで、クイーンズタウンという目をみはるような湖の美しさと茂っている山々が大変すばらしい場所へ行った。

クイーンズタウンはアクティビティの中心地で、世界で初めて、商業バンジージャンプが行われた場所として有名。(カワラ湖)私は、バンジージャンプを怖くてするつもりがなかったので、バスの中から見学した。{予約制だった。)姉は何年か前クイーンズタウンでバンジージャンプをしていたが、姉の勇気にはいつも驚かされる。スカイダイビングもしているからだ。

クイーンズタウンには世界遺産があり、ニュージーランドの南西にあるフィヨルドランド国立公園にあるミルフォードサウンドだ。観光客が多く、クイーンズタウンで、私が行った観光予定地には新婚旅行のペアが2,3組いて、そのうちの一組の新婦のほうが、なんでずっと一緒についてくるのかしらと、怪訝な顔で私をみてきたが、しかたがないよ、これが人気コースなんだから、日本人ならみんな行くと思ったので気にしないことにした。自分は山や湖をバックに一緒に写真を撮りたかったが、当時はスマホも自撮り棒もなかったので、人にたのむしかなかったが。いろいろとタイミングを逃し、景色を撮るだけになってしまった。この時、一人旅ってつまらないなあと思った。レストランにもひとりでは入りにくいし、一緒に「景色がきれいだね。」と言える相手もいなかったからだ。

ここで、私はリアルバックパッカーを見てしまって。なんか周りと雰囲気が違うなと思ってその人を見ていた。このコースの観光客に用意されていた軽食をそのバックパッカーは、人目を気にせずいっぱいリュックにいれていた。夕食にでもするのだろうか。貧乏旅行もやりすぎると滑稽だ。まあ私も、旅行中、お土産屋さんとかでサンドイッチを買って食べていたが。

そこでは、羊の毛刈りショーがやっていて、見事に羊の毛が落ちていって刈られていったが、少し血がでている羊もいたので、ちょっとかわいそうだった。

二日目、南島のダニーデンのペンギンツアーに行った。ガイド付きのツアーで保護区からペンギンを観察できた。絶滅危惧種のイエローアイドペンギンを観察できる貴重な地域。私はガイドの英語が全然分らなかったが、まじかでペンギンをみられたことが嬉しかった。だが、少し遠くにいるペンギン達は、ガイドが持つ双眼鏡で見えないほどはっきりと見えなく、二チームにわかれ双眼鏡をシェアしたのだが、私には、双眼鏡がまわってこなかった。なぜだろうと思ったら..

答えはすぐに分かった。白人は白人どうしで、有色人種を下にみていて双眼鏡の一つは、白人で回されていた。生まれてはじめて、人種差別にあった。ショックだったが、世の中にはこんな軽い差別、

だれも訴えないんだろうなあと思った。結局、私は有色人種の方々が、空気を読んで双眼鏡をまわしてくれて、ペンギンもしっかりみれた。それ以来、海外にいって、これみよがしに人種差別はあったことがない。幸せだと思う。やはり(楽しみで行く人もいると思うので行った先で、いわれのない差別に合うのは、悲しいし、その国のイメージをおとしめてしまうと思う。)

そんなこんなで、ペンギンを見た後、草原を歩きスタート地点に戻ろうとして歩いていたら、目がごろついて、瞬きをしたら、つけていたコンタクトレンズが片方下に落ちた。私は思わず「コンタクトレンズが!」と叫んだら、

さっき双眼鏡を回してくれた人たちが前を歩いていて、その声で一気に振り向いてみんな動かないようにして、私のコンタクトレンズを探してくれた。そうしたら、結局私の足元にあって、「日本語で)ありましたー!!」と言って立ち上がったら、みんながウオーと喜んでくれた。南米系の方々も母国語しか話せなかったので、その後は。私は何度もサンキュー、サンキューと言い普段ならしない握手までして、その日はその後。ミルフォードサウンドやマウントクックなどをバスで回った。

あと、印象に残っていることがある。日程にお城のあるダニーデンもいれていて、ダニーデンにはニュージーランド唯一の公式のお城であるラーナック城がある。1871年から1874年に建築され、、「城」と呼ばれる建物は珍しく、ラーナック城はその代表格である。このお城は、ウイリアム・ラーナックが家族を住まわせるために建てたが、彼の人生は悲劇的で(事業の失敗など。あまり詳しい文献をみつけられなかった)のちに自殺していて「呪われた城」としての逸話もある。この時ラーナック城の勉強をしないで行ってよかったと今では思う。城は、ダニーデンから、車で20分だったので、タクシーを観光案内所みたいなところで呼んでもらった。

ニュージーランド唯一の城、ラーナック城

話は少しずれるが、私の英語は教科書の定型文みたいなので、融通がきかない。こちらからは発せられるが、相手の言っていることが分からないという日本の英語教育をがっつり受けた世代である。ある時CDショップでCDを買ったが、向こうの言っていることが分からず、私はへらへらしていて、店員さんにも肩をすくめられた。あとで分かったが、ポイントカードはあるかどうかを聞かれていたみたいだ。

タクシーを待っていたら、太ったおじさんがやってきて、出発した。そのおじさんはよっぽどの話好きなのか、私が英語が話せないと分かると、途中で止まり、、日本語が話せるという若い(学生だろう)女性をつれてきた。

だが、その女性は殆ど日本語が話せなく、日本語が好きで勉強中というのは分かったが、片言もいいところ、私のつたない英語とジェスチャーで、お城まで行った。あんなにきまずく長い20分はなかった。お城には、広大な庭園と展望台があった。展望台からは、オタゴ半島やオタゴ湾の素晴らしい景色が一望できた。庭のことはあまり覚えていなくて、ニュージーランドは夏なのに城の中がひんやりしていたことを覚えている。(ラーナックの呪い?)

ガイド付きツアーもあったようなので、場内を詳細に見学できたかもしれないが、ガイドはニュージーランド人だろうから、英語のガイドで話していることが分からないだろうから、結果的に1人で行って、逆に良かったかもしれない。たまたま城内は私達2人(日本語の話せない女性と)で、少しこわかったからちょうどよかったかもしれない。最後に、このお城は、私がお城の写真で見てきたドイツのお城みたいな荘厳さはなかった。ウイリアム・ラーナックはオーストラリアとニュージーランドで、政治家で実業家として成功した人で、ラーナック城は富を誇示するためにつくられたそうだ。

帰りのタクシーは一人で乗り、「BEAUTFUL SCENERY」と言い続けた。と言い続けた。そうじゃないとタクシーの中で間がもたなかったのだ。降りるときに、細かいお金がなくてお釣りを返してくれなかった時に、「CHNGE」という単語を知らなかったために損をした気分になった。チップのない国でそれをやられたのが、むっときたが、考えたら、日本でもタクシーで「釣りはいいよ」っていうのがあるからまあいいかと思った。それぐらいのお釣りだった。

次の朝早く、バスで出発した。朝からバスに乗って、さあ、憧れの星空が見られる時が来た!といきごんでいた。テカポ湖は、氷河割紛(ロックフラワー)が水中に混じっているため水面が独特のターコイズブルーの色をしている。南島の中央部、マッケンジー盆地に位置し、標高710メートルの場所に広がる湖。。夜はテカポにあるホテルで星空をみようと楽しみにしていた。中級ホテルやモーテル、キャンプ場もあったが、私は、安全と衛生を考えてホテルにしていた。バスに乗る前にオークランドまで行くバスに乗ったのだが、私は途中下車して、違うバスにのる予定だった。バス停で日本人の老夫婦にどこにいくの?と聞かれたのでテカポですといって、雑談をしていた。海外のバス運転手はいいかげんなのにテカポに着いたら降りるから絶対教えてねといったら(一応英語で)快くうけおったみたいなかんじのことを言ったので、私はなぜか安心して、後ろのほうの席に座った。気分はハイテンションで、羊ばかりが延々と放牧されている景色も素敵で、羊がかわいいとか思って、写真まで撮っていた。そんなバス旅行中、トイレ休憩で、バスが停車したのだが、私は、テカポのことを思いすぎて途中下車することを忘れていた。そして、そのまま気が付かずにバスが発車した。しばらくして、乗車前に雑談をした老夫人が「あなた、テカポにいくんじゃないの?」と声をかけてくれて、その時初めて私はテカポを乗り越してしまったことに気が付き、一気に心がどよんとした。もうだいぶ走っていてそこで降ろしてもらうのは、到底無理だと思った。.草原を歩いて迷子になるより、ここは、テカポを諦めてオークランドまで、このひどい状態でバスに乗り続ける選択をした。あの時のことは一生忘れないと思うし、もうこれから先行くチャンスがない私には、出ない涙も出そうだった。それから、到着まで、窓の外をみていて、ひつじがごろごろいるのを見てもなにも感じなかった。そして、3,4時間経ち重い足取りで、オークランドについたが、まず私は売店と公衆電話を探さなければいけなかった。なぜかというと、私がその時に思ったのは、オークランドからテカポへ引き返す選択ではなく、滞在していたウエリントンに戻るという選択をしたからだ。私はその時もう観光気分ではなかった。私は、クレジットカードと現金はもっていたが、ウエリントンまで帰る飛行機のチケットをとらなければいけなかった。公衆電話を見つける前になんとか国内線の切符売り場をみつけたが、私はまごまごしてしまい、なにもいわずに一度そこを出て、やっぱり、この旅行を手配してくれたウエリントン在住の知人に電話しようと思った。そこで公衆電話が重大な役割をはたす。しかし、そこで安心できなかった。私が持っていたテレフォンカードの度数が少なかったのと、テレフォンカードを売っている売店が日曜日は休みで、運の悪いことにその日は日曜日だったので手に入らなかったからだ。ニュージーランドの公衆電話は変わっていてコインしか使えないものと、テレフォンカードしか使えないものと、クレジットカード専用の三タイプがあり、私のクレジットカードは使えないものだった。知人の電話番後が書かれてある紙を握りしめその知人の会社に電話した。ここでも緊張しなければならなかった。電話にでるのが、まず英語しか話せない秘書だったからだ。秘書に知人にかわってとあらかじめ用意した英文をよみあげるように言って、知人につながってなんとか飛行機のチケット売り場に電話してもらうということになって電話を切った。切符売り場には多分ニュージーランド人しかいないのだろうと思っていたが私の事情が向こうの人に分かったころにたまたま日本人のCAさんがきて、オークランドの空港まで、連れて行ってくれた。空港は歩いていける距離だった。そのCAさんは、私に気を使って、オークランドの観光していく?と言ってくれたが、最初のほうで観光していたし、その時は一人が心細くて、とにかく家に帰りたかった。

今の私なら、バスに乗る時から、一番前にじんどって、バスの運転手なんか信じないで、看板や標識を一番に探しそれらを信じると思う。そして、もしオークランドに行ってしまってもテカポへの飛行機のチケットを知人に頼んで、買ってもらうだろう。(最後はひと頼み)そしてその日に引き返す。今は、スマホがあるし、自撮り棒もあるし、前より英語の語彙もふえているし、お金があったらいくのになあと思う。あの時は若かった。勢いがあったはずなのにそれが発揮できなかったのが悔やまれる。やはり病気の時に旅行に行くべきではなかったなと思う。

そうして、無事ウエリントン行きの飛行機に乗って、家でまっている母のことを思った。母との2か月のニュージーランド生活は、とても楽しかったとは言えなかったが、いい経験をしたと思う。

私は、いまでもテカポに行けなかったことを後悔している。今でもテカポの写真をみるたびに胸がぐっとなる。ここだけは前向きになれない。

この旅行がおわったあと、3か月の滞在予定を短くし2か月で帰国した。最後は母は旅行をしていなかったので、ウエリントンから、オークランドまで列車に乗って帰ることにした。なぜなら乗車時間が11時間半でその11時間半で景色がどんどん色々かわっていくからだ。チケットットセンターに二人で行って、オークランドまで行きたい、列車でいきたいのですが」というと、いい店員さんがバスのほうが安いですよと親切に言ってくれたが、私達は、「NO、列車で行きたいんです。」といった。バスでいくのと、列車でいくのとでは、日本で深夜バスで行くのと、新幹線でいくのくらい、お金に差があった。母は最後に、お世話になった人に泣いてお世話になりましたと言って列車に乗った。私は、お世話になった方にあまりいい気持ちをもっていなかったので、挨拶だけした。こういうところもまだ私はこどもだった。私達が乗ったのは、旅行列車で定期的にお菓子がでてきて、その間にランチがでてきた。すわりごこちのいい椅子で、窓が広く、相変わらず人口より多い羊が草原でたわむれていた。オークランドは北島なので、私も行っていなかったので、景色が楽しめた。でも、この2か月で、過食症の症状がでていたので、前日に過食してしまっていたので、私はでてくるお菓子を食べなかった。

最後までいやな思いをした旅だった。だが、インドア派の私がこんなに動いたのは、海外だったからかもしれない。親にも心配をかけたし、今では疎遠になった姉との会話もこの機会があったからだと思う。事実はまげられないから、これからいいことの上書きをしていきたい。ありがとう、ニュージーランド。

  • 0
  • 0
  • 0

はる組

こんにちは。 懸賞応募と海外留学などのエッセイを読むのが趣味です。 発達障害で困ることも沢山ありますが、どうよろしくお願いします。

作者のページを見る

寄付について

「novalue」は、‟一人ひとりが自分らしく働ける社会”の実現を目指す、
就労継続支援B型事業所manabyCREATORSが運営するWebメディアです。

当メディアの運営は、活動に賛同してくださる寄付者様の協賛によって成り立っており、
広告記事の掲載先をお探しの企業様や寄付者様を随時、募集しております。

寄付についてのご案内