毎度の皆様こんにちは。今回は前にも言及した「物語の面白さ」やコンテンツの娯楽性はどこにあるのか?という部分をより深掘りしたいと思います。
結論から書きますが、「物語の娯楽性は”自分以外の要因が想定されている部分”が存在することで成立する」です。
誰もが自分なりの物語をノートに書き空想や妄想に浸ったことがありますよね?
しかしそういった「黒歴史ノート」に他人が楽しめる娯楽性が宿っている事は非常に稀でしょう。
ですが幼稚園児や小学生入りたての小さい子供が描くクレヨン画には見る者の心を動かしそこから伝わる物語性は感動をもたらすモノ。
同じ拙い表現でありながら「黒歴史ノート」に無く幼稚園児のクレヨン画に有るモノとは何でしょう?
そう、正に「自分以外の要素が含まれているか否か」だと私は考えるのです。
中学生の「黒歴史ノート」には大体の場合自己都合しか想定されていないし都合のいい自己肯定だけが詰め込まれているもの。
つまり自分だけで世界が完結しているので解決するべき不都合が存在しないのです。
それは物語が始まる必要が無いのと同じこと。
ここに娯楽性が存在しない因果があると私は考えるのです。
ですが情報量や拙い表現しかないにも関わらず幼稚園児の描くクレヨン画に明らかな物語性を感じる人は
少なくないでしょう。
何故か?
それは自分と両親や家族、または自分と友人との関係性が主要因として表現されているからではないでしょうか。
その関係性は見る人に様々なエピソードを想像させます。
そしてその想像は見た人の現実感と融合してリアリティを獲得し、娯楽性を持つ創作物へと昇華される。
これが今回私が考察した上での結論です。
他人との、自分の外の要因との関係性が物語性を生む。これからの創作に役立てて行こうと思います。
最後まで読んで下さりありがとうございました。