▶周瑜、赤壁で曹操軍を焼き討ちする
長江に浮かんだ船の上で、周瑜は勝利を確信した。
対岸の敵船からパッと火の手が上がったのが見えたからだ。
「どうやら、うまくいったようだな。」
またたく間に火は他の船にも燃え広がり、夜空を赤々と照らす。
あわてて火を消そうする者、逃げ出そうとする者もいた。
数十万の敵は、いまや完全に混乱している。
時は来た。
呉の総司令、周瑜(しゅうゆ)は配下の軍船団3万に命令した。
「今だ、全軍突撃!曹操(そうそう)軍を一人も生かして帰すな!」
「オオーッ!!」
命令一下、彼の指揮する水軍は一斉に曹操の船団に攻めかかった。
火攻めで浮足立ったところに、鍛え抜かれた精鋭の水軍が押し寄せてくる。
まともに迎え撃てるわけがない。
曹操軍はあっという間に崩された。
「おのれ、周瑜だ。周瑜にしてやられた!」
勝利を確信して慢心していた曹操は、命からがら逃げだすのが精いっぱいだった…。
▶周瑜はなぜ赤壁の戦いで勝利できたのか?
「三国志」最大のクライマックス、「赤壁(せきへき)の戦い」の一場面を自分なりに描いてみました。映画「レッドクリフ」でも描かれたので、ご存じの方も多いかもしれませんね。
赤壁の戦いは周瑜率いる呉の水軍勢が、曹操率いる大軍を撃破した戦いです。今回は三国志に登場する周瑜という人物を取り上げ、
なぜ周瑜は曹操の大軍と戦い、勝利することができたのか?
という点を中心に見ていきたいと思います。
結論から言うと、それは義に基づいた揺るがぬ決意と冷静かつ正確な分析能力があったからです。
次の章からくわしく見ていきましょう。
なお「三国志」には陳寿が書いた歴史書(いわゆる「正史」)と、後代にそれをもとにつくられた「演義」の二つがありますが、今回は「正史」をもとにお話を進めさせていただきます。
それでは、いざ三国志の世界へ!
▶イケメン軍師、周瑜の生い立ちと、孫策との出会い
周瑜(しゅうゆ)は、175年に揚州(ようしゅう)廬江(ろこう)郡に生を受けました。ときは後漢末、漢の力は弱まり、各地で群雄たちが「われこそが次の天下を」と機会をうかがっている時代です。
廬江郡の周家は後漢朝において、かなりの名家で有名でした。また彼自身、立派な風貌(ふうぼう=姿いでたち)をそなえており、「美周郎」(びしゅうろう)というあだ名で呼ばれていたくらいですから、周りから一目置かれる存在だったのは間違いないでしょう。いいところのお坊ちゃんでしかもイケメンとくれば、もしかしたら相当モテていたかもしれませんね。
ある時、若き周瑜はある一人の青年と出会いました。彼の名は孫策(そんさく)。彼の父が当時都をおさえていた董卓(とうたく)に対して挙兵したので、これに従っていました。孫策は周瑜のことを伝え聞いて彼のもとを訪れたようです。同い年だったこともあり、二人は意気投合。お互いの家族にあいさつに行ったり、周瑜が邸宅を譲ったりと家族同然の付き合いをしました。二人は親友になったのです。
その後、二人は離れ離れになりますが、194年、孫策が江東(こうとう)へむけて進軍すると、周瑜も軍を率いてすぐにこれを追いかけ、二人は再会します。
二人は協力して領主・劉繇(りゅうよう)を打ち負かし、さらに東に進んで呉(ご)、会稽(かいけい)といった地域も平定しました。これによって孫策は「江東の小覇王」と呼ばれるようになり、これらの地域は後々まで孫政権の基盤になっていきます。
周瑜は孫策の主君である袁術(えんじゅつ)に呼ばれ、一時彼に仕えましたが、すぐに見切りをつけ、孫策の元へ戻っています。やはり周瑜は、仕えるならば孫策しかいないと思ったのでしょう。
198年、孫策のもとに戻った周瑜は荊州(けいしゅう)方面の攻略を任され、江夏(こうか)の太守(たいしゅ=郡の長官)に抜擢されました。孫策が周瑜を高く評価し、なおかつ信頼を置いていたことがわかりますね。
廬江の皖(かん)という街を攻め落とした時、喬(きょう)公の娘で絶世の美人として知られていた2人の姉妹と出会い、嫁にすることにしました。孫策は姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を妻に迎えました。これも二人の仲の良さを表すエピソードですね。
美人のお嫁さんを見つけ、挑む戦いは連戦連勝。まさに順風満帆の青春時代といったところでしょうか。しかし、そんな二人の時間は思いがけない形で終わりを迎えてしまいます。
▶孫権への忠誠を誓い、呉をまとめる
200年のある日、孫策は一人で長江のほとりへ遠出しました。その理由は明らかではありませんが、そこで刺客の待ち伏せにあい、顔に矢を受ける重傷を負ってしまいます。死を悟った孫策は弟の孫権を後継者に指名。死の間際、「才能ある者の言葉をよく聞き、江東の地を固く守るように。その点に関しては、私よりお前のほうが上だ。」と孫権に言い残し、間もなくこの世を去りました。享年26才。あまりにも若すぎる死でした。
「孫策が襲われた」という知らせを聞いた周瑜は本拠地、呉へ急ぎましたが、孫策の死には間に合いませんでした。彼のその悲しみはいかばかりであったか、想像に難しくありませんね。
そしてさらに追い打ちをかけるように大きな問題が起こります。それは跡を継いだ孫権の言動です。彼は兄とは対照的で内気な若者でした。兄の葬儀が終わっても、何日も泣いて暮らすありさま。これにはさすがに部下の武将たちも不安になりました。「はたして孫権様についていってもいいのだろうか」、諸将の動揺、迷いが重く陣営に立ちこめました。このままではせっかく孫策と周瑜が築いた勢力も、バラバラになってしまうかもしれません。
しかし、周瑜は他の諸将とは違いました。彼は真っ先に孫権に忠誠を誓い、臣下の礼を取ったのです。それを見た周囲の武将も彼に続いて、孫権を君主として仰ぐようになりました。こうした周瑜の義にもとづいた行動により、孫権軍は一致団結。周瑜自身も孫権から厚い信頼を得て、のちに実質的な軍事面の総司令官に任命されました。死んだ親友との友情も大切にする、情に厚い周瑜の存在によって、孫権軍は大きなピンチを乗り越えることができたのです。
▶曹操軍の弱点を冷静に洗い出す
208年、華北(中国北部)をほぼ平定した曹操は、今度は南へ向けて軍を進めてきました。勢いを駆って、一気に中国全土を支配するつもりだったのです。真っ先に標的にされたのは荊州(けいしゅう)の劉琮(りゅうそう)でした。彼は亡くなった劉表からその地位を継いだばかり。とても曹操にあらがう力はなく、侵攻してきた曹操軍にあっさりと降伏してしまいます。
これを受けて孫権陣営では軍議がおこなわれ、曹操と戦うか降伏するかが話し合われました。曹操軍は兵力的に孫権軍を大きく上回っており、荊州の水軍も手に入れていました。こうしたことから、孫権陣営では「曹操への降伏はやむを得ない」という意見がほとんどでした。しかし周瑜はこれに反対。孫策と作り上げた領土を絶対に他人に奪われたくなかったのでしょう。でも、負けたくないという感情だけで戦争に勝つことは不可能ですよね。そこで周瑜は冷静に戦況を分析し、曹操軍の弱点を徹底的に洗い出していったのです。
周瑜が挙げた曹操軍の弱点とは次のようなものです。
・曹操軍はこの風土に慣れておらず、疫病が発生するにちがいない。
・新たに曹操軍の一部になった荊州の水軍は、まだ本心から曹操に従っているわけではなく、統制が行き届いているわけではない。
そのうえで周瑜は孫権に「勝機はこちらにあります。曹操を破ったら、長江上流域は私たちのものです」と進言しました。実は周瑜のこの分析は当たっていました。危機迫る中での冷静な分析・判断能力の高さが光りますね。これを聞いた孫権は曹操と戦うことを決断し、3万の精鋭水軍と配下の重臣たちを周瑜に預けました。
そして曹操の追撃から逃れてきた劉備(りゅうび)と合流、ともに曹操軍と戦うことになります。戦いは孫権軍の得意とする水上戦で行うことが決まり、長江下流の赤壁に布陣。曹操軍を迎え撃つ準備をすすめました。
▶赤壁の戦いで呉を勝利に導く!
208年冬
ついに長江下流で曹操軍と孫権軍は激突します。
「赤壁の戦い」のはじまりです。
周瑜の予測はみごと的中しました。この時曹操軍の兵士たちは疫病に悩まされており、士気は高くありませんでした。また、周瑜配下の水軍はよく訓練されており、打倒曹操を目標に諸将は団結していました。ふたを開けてみれば、緒戦は孫権軍が数に勝る曹操軍を圧倒。曹操軍は後退して、長江北岸の烏林(うりん)に陣を敷きました。
いっぽう、緒戦に勝利して士気が上がった周瑜ら孫権軍は、南岸の赤壁に布陣。勝利したとはいえ、まだまだ曹操軍の数は多く、うかつに手を出すことができません。曹操軍のほうも意外に孫権軍がまとまっていたことや、自軍に疫病がまんえんしたことは想定外で、両軍のにらみ合いが続きました。ここで配下の部将黄蓋(こうがい)が一つの策を提案してきます。偽の降伏を曹操に申し入れ、油断させる。その隙に火船を体当たりさせて曹操の船団を燃やしてしまおうというものでした。周瑜はこの策を採用し、黄蓋に偽の降伏をする準備を進めさせました。
この作戦は功を奏しました。曹操はこの偽の降伏を信じたのです。夜陰に乗じて、偽装した火船で黄蓋が曹操軍の船団に近づきます。降伏してきたとばかり思っていた曹操は、しかし次の瞬間目を疑ったことでしょう。船には油をかけた薪が満載してあったのです。それに気づいた時にはすでに遅く、黄蓋は火船に火を放ちました。船は燃えさかり、そのまま曹操軍の軍船に一直線。この火船の直撃を受けた曹操の軍船は次々に炎上していきました。これが冒頭に描いた一場面です。軍船の火災は折から吹いていた東南の強風にあおられて延焼し、岸辺の陣営にまで達しました。そのなかで、曹操軍の兵士たちは炎にまかれたり、川に落ちたりして命を落としていきました。
火攻めの成功を確認した周瑜は、全軍に総攻撃を命令。疫病に加えて火攻めで大混乱に陥った曹操軍にまともな反撃はできず、曹操は敗北を悟って戦場から逃走しました。曹操の大軍は壊滅し、赤壁の戦いは孫権軍の大勝利でおわったのです。
こうして曹操の中国統一という野望は防がれました。そしてこの戦いののち、曹操、孫権、劉備の三人の英傑による三国時代へと向かう契機になりました。周瑜の決断と行動は、その後の中国の歴史に大きな影響を与えたといっていいでしょう。
▶赤壁の戦い後の周瑜とその死
赤壁での大勝利ののち、周瑜は曹操がすぐに次の軍事行動を起こせないとわかっていました。そこで、その間に劉璋(りゅうしょう)の支配していた中国南西部の益州(えきしゅう)を占領し、中国の南半分をおさえて、曹操と決戦、これを倒す計画を立てます。孫権もこれを了承し、軍を進めることになりました。しかし、その遠征の途上で病のため急逝。36歳でした。その死は孫権を大いに嘆かせたと伝わっています。
▶義に篤い決意と冷静沈着な分析力が、赤壁での勝因だった
以上、三国志に登場する周瑜という人物を見てきました。
あらためて、周瑜がなぜ曹操と戦い、赤壁で勝てたのか、その要因を考えてみましょう。私は次の二点にまとめました。
・親友孫策と築いた領土を守る、という義に篤い揺るがぬ決意があった
・知略を駆使して、曹操軍の弱点を冷静かつ正確に分析した
この二点に集約されるのではないでしょうか。周瑜は義理人情に厚く、なおかつ冷静沈着な頭脳を兼ね備えた、非凡な人物だったと私は考えています。
フィクションの三国志演義では、主役格の諸葛孔明の引き立て役的なポジションで描かれてしまっていますが、史実での赤壁の戦いの主役は紛れもなく周瑜だったのです。
三国志正史を書いた陳寿も「曹公(曹操)は(中略)東夏(=呉)の地に鉾先を向けてきた。(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛は、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しさを立て、人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」と高く評価しています。
229年、孫権は江東を基盤に呉を建国、初代皇帝に即位します。そのとき孫権はこう言いました。
「周瑜がいなければ、(わたしは)皇帝になれなかった」
この一言は周瑜の存在の大きさを印象付けられます。彼は、まさにその後の歴史を変えた名軍師だったのです。
おわり
参考サイト
・Wikipedia 「周瑜」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%91%9C
・Wikipedia 「孫策」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%AD%96
・Wikipedia 「孫権」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9
・Wikipedia 「赤壁の戦い」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84