福島県相馬地方(南相馬市・相馬市など)の初夏を彩る「相馬野馬追(そうまのまおい)」。現在は5月に開催時期を移し、新緑の風を切り裂きながら数百騎の騎馬武者が疾走する姿は、世界に類を見ない「リアル戦国絵巻」として人々を魅了しています。
しかし、なぜこの令和の時代に、これほど大規模な武者たちが本物の甲冑を纏い、実戦さながらの行事を繰り広げることができるのでしょうか。その華やかな祭りの裏には、平安時代の英雄・平将門(たいらのまさかど)の執念と、幕府の目を盗んで続けられた「秘密の軍事演習」という、黒く燃える歴史のロマンが隠されているのです。
1. 始まりは「秘密の演習」:平将門が仕掛けた野生馬の戦術
相馬野馬追の歴史は、今から一千年以上前、平安時代の中期にまで遡ります。その創始者とされているのが、東国で朝廷に反旗を翻し「新皇」を名乗った不世出の武将・平将門です。
将門は下総国(現在の千葉県・茨城県付近)の広大な小金原の野に、多くの野生馬を放ちました。そして、その野生の馬を「敵の兵」に見立てて、自らの軍勢に捕らえさせる訓練を始めたのです。これが野馬追の原点です。
木々をなぎ倒し、縦横無尽に暴れ回る野生馬を素手や馬上で捕らえる訓練は、生半可な兵士では命を落としかねない過酷なものでした。しかし、だからこそ将門の軍勢は、実戦において圧倒的な機動力と強靭な肉体、そして恐れを知らない精神力を手に入れることができたのです。
2. 幕府を欺いた執念:相馬氏が受け継いだ「武士の意地」
平将門の血統を受け継ぎ、奥州(現在の福島県相馬地方)へと領地を移した相馬氏は、この将門の戦術を代々絶やすことなく継承しました。
しかし、時代が鎌倉、室町、そして江戸へと進むにつれ、武士たちの環境は激変します。特に徳川幕府が天下を治めた江戸時代には、大名が勝手に大がかりな軍事訓練を行うことは「謀反の疑い」をかけられ、お家断絶に追い込まれる最大のタブー(禁忌)でした。
そこで相馬藩は、この過激な軍事演習を「妙見(みょうけん)信仰の神事」という大義名分のもとで行うことにしました。「これは軍事訓練ではなく、神様に野生の馬を奉納するための平和な祭りである」と幕府に釈明したのです。
きらびやかな旗指物を掲げ、一見するとお祭りのパレードのように見せかけながらも、その中身は、一朝一夕には真似できない、本物の騎馬戦術と陣形を叩き込む「暗黙の軍事演習」そのものでした。戦のない平和な時代にあっても、相馬のサムライたちは牙を研ぎ続けていたのです。
3. 現代に息づく遺伝子:一千年の時を超える「本物の誇り」
明治時代になり、武士の時代が完全に終わりを迎えたとき、全国の多くの武術や伝統が失われていきました。しかし、相馬野馬追だけは絶えることなく、地域のひとびとの手によって「民俗行事」として生き残りました。
その理由こそが、一千年以上にわたって彼らの血肉に刻み込まれてきた「将門の執念」と「武士の誇り」です。
現代の野馬追で使われる甲冑や武具の多くは、単なるコスプレの小道具ではなく、それぞれの家庭で先祖代々大切に守り継がれてきた「本物の遺物」です。
新緑の相馬の地を、漆黒の馬たちが地響きを立てて駆け抜けるとき、ひとびとの目は単にお祭りを楽しんでいるのではなく、真剣そのものの「武将の目」へと変わります。それは、かつて激動の時代を駆け抜けた先祖たちの魂が、現代の若者たちの中に今も確かに息づいている証拠なのです。
結びに:初夏の風に響く、進軍の足音
平将門が野生の馬を追いかけたあの日から、一千有余年。
時代が変わり、開催の季節が夏から5月へと移り変わっても、相馬野馬追の本質が変わることはありません。
初夏の爽やかな青空の下、突如として響き渡る螺(ほら)貝の音と、大地を揺らす蹄の音。その熱狂に身を浸すとき、私たちは単なる観光客ではなく、一千年の時を超えて今なお続く、サムライたちの「秘密の演習」の目撃者となるのです。
