【考察】慶長遣欧使節とサン・ファン・バウティスタ号について

(復元されたサン・ファン・バウティスタ号 現在は解体)

今から約400年前、現在の宮城県牡鹿半島の月浦から1隻の大型ガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」が、太平洋のかなたをめざして出帆しました。

目的は、当時スペイン領だったメキシコとの通商交易の樹立。

伊達政宗の大いなる夢を乗せて、支倉常長たち慶長遣欧使節は旅立っていったのです。

しかし日本側の史料はほとんどが破棄され、今日に伝わってはいません。わずかに海外の文献・絵画、そして常長が持ち帰ったとされる文物などが残されているだけです。

今回は、そんな慶長遣欧使節にスポットを当て、歴史の闇に葬り去られた謎についてご紹介したいと思います。

目次

・慶長遣欧使節とは

東日本大震災のちょうど400年前、1611年に仙台藩は慶長の大津波によって1000人以上の死者を出す大きな被害を受けました。

一説によれば、この津波からの復興が慶長遣欧使節の発端になったともいわれています。

しかし、伊達政宗はこれより以前から外国との通商を望んでいました。九州や西国の大名たちは外国との貿易で大きな利益を上げていたからです。そこへ津波による被害があり、計画を急いだというところではないでしょうか。

ともあれ、政宗の「スペインと直接交易をしたい」という夢を実現させるべく、仙台藩は500トン(一説には300トン)クラスの大型ガレオン船を建造。これが現在「サン・ファン・バウティスタ号」と呼ばれている船です。

ガレオン船は当時の最先端技術。建造には西洋人たちの助力もあったことが分かっていますが、これを45日間で建造したというのですから、当時の技術力の高さをうかがうことができますね。

1613年、サン・ファン号は政宗の家臣、支倉常長を筆頭に宣教師ルイス・ソテロらをのせて月浦を出航。太平洋を一路メキシコのアカプルコを目指しました。

3か月の航海ののち、サン・ファン号は無事太平洋を横断、アカプルコへの入港に成功しました。現地の人々は、遠く日本から来た大船に驚かされたのではないでしょうか。

常長らはここで船を乗り換え、スペインのセビリアへ上陸。王都マドリードへ向かいました。そこで国王フェリペ3世に謁見した常長は洗礼を受け、キリシタンとなります。

常長は国王との交渉がうまくいかないとみるや、さらにイタリアのローマへ向かい、教皇の仲介を得ようとしました。ローマへ着いた使節一行は大歓迎を受け、栄誉あるローマ市入場式典がとりおこなわれました。さらに常長はローマ市民にも名を連ねることができたのです。

しかし、常長らの懸命の努力もむなしく、通商交渉は不調に終わってしまいました。当時、すでに江戸幕府がキリシタン弾圧へ動いていたことが伝わっていたのです。

迎えに来たサン・ファン号に再び乗り込んで帰国した時には、月浦を出帆してから7年の歳月が流れていました。

すでに記録はほとんどすべてが破棄されており、常長は帰国からまもなくして、病気のためこの世を去ったといわれています。

・人物などの紹介

支倉常長

仙台藩士で伊達政宗の家臣。武将として秀吉の朝鮮出兵にも参加した経験があり、異国での経験も積んでいました。また相手方との交渉にも長けており、使者としても活躍していたようです。

一時期、藩を追放されていましたが、政宗によって使節大使に任じられました。

真面目で落ち着いた性格で、立ち居ふるまいが堂々としていたという記録が海外に残されています。

ルイス・ソテロ

スペイン・セビリア出身のフランシスコ会派宣教師。

政宗に海外の情報をもたらした人物で、キリスト教の布教にも大変熱心でした。しかし、熱心すぎるあまり彼の残した記録や証言には偽りも多いとされています。

使節団の通訳としてサン・ファン号に乗り込み、スペイン国王などとの交渉にも尽力しました。

最後はキリスト教が禁じられた日本に密入国しようとして捕らえられ、処刑されています。

セバスチャン・ビスカイノ

スペイン出身の探検家。

三陸沖で金銀島を探していたところ、慶長の大津波に遭遇して、その記録を残しています。その記録は長らく軽視されてきましたが、2011年の東日本大震災で見直されることになりました。

サン・ファン号の建造にも大きくかかわり、当時その技術を漏らした者は死刑に処すとされていたガレオン船の情報を仙台藩に提供しました。

客人扱いでしたがサン・ファン号に乗船。同船の太平洋横断に貢献したのではないかと思われます。

サン・ファン・バウティスタ号

ビスカイノや江戸の船奉行だった向井将監らの指導の下、仙台藩が建造した500トン(または300トン)クラスの大型ガレオン船。大工800人、鍛冶700人、雑役3000人の人手を使い、約45日で建造されたといわれています。

「サン・ファン・バウティスタ」とは「洗礼者 聖ヨハネ」という意味で、ビスカイノと政宗が出会った日にちなんで名付けられたと言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。

常長ら使節団を乗せて太平洋の横断に成功しました。その後、一時日本に戻りますが、常長の帰国に合わせて再度太平洋を横断。結果的に太平洋を二往復しています。

この点から、長期間の航海にも耐えられる一流の船だったことが分かりますね。

1993年に出帆地とされる月浦に復元され、多くの人々に愛されてきました。しかし東日本大震災の津波や、その後の強風の被害によって船体が損傷したことから、2021年に惜しまれつつ解体されました。

では、ここからいよいよ慶長遣欧使節の謎について見ていきたいと思います。

・謎①なぜ常長が使節に選ばれたのか?

実は、常長の武将としての地位は高くなく、領地も600石程度です。また彼の父親は罪を犯して処刑されており、常長自身も仙台藩から追放されていた時期がありました。

そんな常長がなぜ、慶長遣欧使節の大使という大任を命じられたのでしょうか?

いろいろと考えられることはありますが、常長自身が若いころからエリートであり、政宗からの期待が大きかったこと。そして使者として大崎葛西の一揆などで実績を積んでいたこと等が大きかったのではないかと思います。

いわば常長はコミュニケーションや交渉のプロだったのではないでしょうか。慶長遣欧使節の目的は通商交渉ですから、そのような人物でなければ大使は務まりませんよね。

また政宗としても、そうした常長に名誉挽回のチャンスを与えたかったのかもしれません。

いずれにしても、政宗は決して「捨てる」つもりで常長を選んだわけではないでしょう。

・謎②サン・ファン号の建造地はどこなのか?

サン・ファン号の建造地として有力視されているのは、①出帆地である月浦 ②雄勝の呉壺 の二か所があり、後者には建造地として石碑も立っています。

ここで注目したいのはビスカイノの記録。

彼は三陸地方の探検記の中で、「大型船の建造に最も適しているのは雄勝」とはっきり記しているのです。

前に述べたようにビスカイノはサン・ファン号の建造に深くかかわった人物です。その人が雄勝をもっとも評価している点から、やはりそこが建造地だった可能性が高いと思います。

ただし呉壺は大型船の建造に向いている場所とは言えないので、雄勝湾の他のどこかだったのではないでしょうか?

地名が船と深く結びついている「船戸神明」などが有力かもしれません。

・謎③サン・ファン号の日本名はなんだったのか?

実は「サン・ファン・バウティスタ」という名前はスペイン側の史料でしか確認できません。しかも登場するのはメキシコ副王がスペイン国王に送った書状の中だけです。

では仙台藩ではなんと呼ばれていたのでしょうか?

残された数少ない史料には単に「黒船」とだけ記載されており、名前の表記はありません。

しかし「雄勝風土記」という書物には、「陸奥丸」として登場しているんですよね。

ではこれが正式名称なのかというと、どうもそうではなさそうです。

というのも「雄勝風土記」は後世になって創作された偽書であるとみなされているから。

でもスペイン国王に「奥州王」として親書を送った政宗のことですので、案外「陸奥丸」というネーミングは的外れではないような気がします。

どちらにせよ、新たな史料でも見つからない限り、「黒船」の名前は明らかにはならないでしょう。

・謎④「常長」は後世につけられた名前だった?

常長の本名は「支倉六右衛門長経」とされています。洗礼名にも常長の名は見えません。

実は常長という名称は後世になってからつけられたもの。後世の支倉氏の家系図に出てくるのが初出だからです。常長自身は六右衛門と名乗っていたようですね。

おそらく、帰国してからもキリシタンだった常長の存在を隠したかった支倉家がつけた名前だろうと言われています。

常長がキリスト教を棄教しなかったことは、密入国しようとしたソテロの記録にも残されています。

・謎⑤サン・ファン号のゆくえは?

サン・ファン号は最後どうなったのでしょうか?

日本に帰る常長を乗せてフィリピンに到着したサン・ファン号は、そこでスペインに軍船として売却されてしまいました。

実は長い旅の結果、使節の資金が尽きてしまい、売却されることがすでに決まっていたのです。常長は別の船に乗り換えて日本に帰国しました。

サン・ファン号が史料に出てくるのはここまで。これ以降の消息はよくわかっていません。一説にはミンダナオ島に向かって、オランダ軍と戦ったとも言われています。

また、奴隷貿易にかかわっていたという新説も出されましたが、はっきりしたことはわかりません。

確かなのは、スペイン軍がサン・ファン号を軍船として使えるとみていたことだけ。これは、サン・ファン号が当時としては水準以上の性能を持っていたことの証ではないかと思います。

・謎⑥帰国後の常長は実は生きていた?

定説では常長は帰国後間もない1621年(もしくは22年)に病没したといわれています。

実は常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所あるのですが、どれが本物なのかわかっていません。その3か所とは①仙台市青葉区北山の「光明寺」②川崎町支倉地区の「円福寺」③大郷町の西光寺(地名)です。

このうち大郷町の西光寺では、常長の所持品と伝えられる物の中に常長宛ての「領収書」が見つかっています。その日付からは常長は帰国後、長い間隠れて暮らしていたことがわかるのです。

さらに西光寺の支倉常長メモリアルパークの墓石には承應三年とあり、これが正しければ常長は84歳まで生きていたことに。

大坂夏の陣が終わった後、敵方の真田信繁(幸村)の娘をかくまっていた政宗のことですから、もし常長が生きていたのなら、きっとキリシタンであっても手厚く保護したかったはず。禁教令を出した幕府の目を逃れるため、人里離れた場所で保護していた…なんて考えることもできるのではないでしょうか。

しかも大郷町西光寺はいわゆる隠れキリシタンの里だったようで、そう考えると、なおさら常長生存説の信憑性は増してくるのです。

・おわりに

ここまで支倉常長とサン・ファン・バウティスタ号の謎を見てきましたが、いかがでしたか?

結果的には失敗に終わった慶長遣欧使節。

しかし、当時スペインやローマの人々が受けた衝撃は相当なものだったのではないかと思うのです。

辺境の島国に過ぎない日本の、そのまた辺境に過ぎない仙台藩が当時最先端だったガレオン船を建造して太平洋を渡ってくるなど、誰も想像もしていなかったでしょう。そして常長の堂々とした振る舞いがあったからこそ、栄誉あるローマ市入場式やローマ市民権の授与などがあったはずです。

現地に残されている常長の肖像画のなんと立派なことでしょうか。常長は、西洋人が持っていたそれまでの日本人のイメージを大きく変えてくれたのです。

そうした意味で、慶長遣欧使節に関してはもっと再評価されるべき、という思いを私は持っています。

そして未発見の史料が世に出て、新しい事実が明らかになる日を願ってやみません。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

参考資料
・政宗の夢 常長の現 著:濱田直嗣 河北新報社 2012年
・検証・伊達の黒船 著:須藤光興 宝文堂 2002年
サン・ファン館
サン・ファン・バウティスタ号 – Wikipedia
支倉常長 – Wikipedia
慶長遣欧使節 – Wikipedia
これぞ仙台歴史ロマン★慶長遣欧使節 支倉常長は生きていた!?その2【宮城歴史浪漫シリーズvol.15】 – せんだいマチプラ

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きんいろ旅程

きんいろ旅程(りょてい)と申します。おもに歴史や競馬などをテーマに、幅広く記事を執筆中。「どんな人にも読みやすい記事を書く」ことをモットーに、日々WebライティングやSEO、Wordpressなどを勉強中です。名前の由来は競走馬「ステイゴールド」から。Twitter→@kinniro_ryotei アイコン:畦ノつぶて様 @azeno_tsubute22

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