※注意:この記事では、やや刺激の強い内容を扱っています。苦手な方はご注意ください。
こんにちは、きんいろ旅程です。
鳥島サバイバル生活の後編をお届けします。
\前編はこちら/
左太夫の死と託された想い
時は流れ、最初の数年で老衰や病気で3人が死亡。
「どうか、家族のいる故郷に帰れますように」
男たちは、船から持ち出した伊勢神宮のお札に水垢離して祈りをささげるも、日々の生活には何の変化もありませんでした。
こうした単調な日々で心身ともに疲弊したのか、自ら命を絶つ者も現れだします。
漂着生活10年目には、生き残りは船頭の左太夫を含めて当初の半分の6名になっていました。
その左太夫にも死期が迫ります。ある時、彼は若い平三郎という男を呼び、あるものを渡しました。それは下田奉行の運送手形。島では何の役にも立たないが、いつか本土へ帰るときに必要になると、長年大切に保管していたものでした。これがのちに平三郎たちの運命を変えることになります。
自らの想いを託した左太夫は、翌年食事がとれなくなり衰弱して死去。本土へ生きて帰るという願いは、平三郎たちに引き継がれることになりました。
新たな漂着者
さらに時は流れ、漂着生活15年目。生き残っているのは平三郎と年老いた2人の3人だけになっていました。
リーダーの左太夫を失った影響は大きく、3人の人間関係は険悪なものになっていました。平三郎は死んだ仲間の服を独占して自分だけ布団を作ったりし、それについてとがめられると、相手を殴り倒すまでになっていたのです。
共同生活はもはや限界に来ているのは誰の目にも明らかで、このままでは全滅は避けられない状況かに思われました。
1739年5月、大きな状況の変化が訪れます。関東近海で遭難した宮本船の乗組員が、小舟での4か月の漂流の末、鳥島に流れ着いたのです。
洞くつを見つけた彼らは、そこでアホウドリの毛皮を身にまとい、伸び放題の髪をした異形の者と出会います。平三郎たち3人です。平三郎らはこの島で生き延びてきたと話しますが、信じてもらえません。そこで、平三郎は洞くつの奥からあるモノを取り出してきました。
「これが、われらが怪しいものではないことの証明です。どうか助けてくだされ…!」
そう言って平三郎が差し出したのが、亡き左太夫から受け継いだ下田奉行の通行手形。この日のために大切に受け継いできた文書です。これに驚いた宮本船の男たち17人は平三郎たちを信用し、彼らと共に鳥島から脱出することになりました。
「後悔しても仕方ない。命をつなぐ工夫をし、神仏に祈れば必ず故郷へ帰れるだろう」
左太夫の想いがつながり、帰還への道を切り開いた瞬間でした。
生還
宮本船は、関東近海で遭難した後、一度小笠原付近に流されていました。そこで本船を捨て、小舟に乗り換えて本土を目指しましたが、約4か月の漂流で水も食料も尽きたところで鳥島に漂着していたのです。
平三郎たちは宮本船の17人に水と食料を提供して、彼らの命を助けました。
彼らの乗ってきた小舟を調べたところ、壊れかけていたものの修理すればなんとか航海に使えることが分かりました。平三郎たちと宮本船の男たちは協力して、小舟の修理に取りかかります。
1か月後、小舟の修理が完了。しかし、ここで宮本船の乗組員から、「17人でも心許なかったのに、この小舟に20人も乗せるのは危険ではないか」という声が上がりました。これを宮本船の船頭補佐が一喝します。
「わしら全員死にかけていたところを、この3人に助けてもらった。たとえ舟が沈んでみんな死んじまったとしても、誰を恨むっていうんだ!」
この言葉で宮本船の17人の心は一つにまとまり、20人全員で島から出ることが決まりました。
6月3日、一同を乗せた小舟は鳥島を出発。平三郎たちは閉じ込められていた鳥島からついに脱出したのです。航海は順調に進み、3日後に八丈島に到着。そこから幕府の船に乗り換えて江戸へ生還しました。鳥島に漂着してから、実に19年もの歳月が流れていました。
江戸に戻った平三郎たちはときの将軍、徳川吉宗にも謁見。彼らの鳥島での生活は役人らによって細かく記録されました。
その後、平三郎たちはふるさとの遠州新居に戻り、余生を全うしました。彼らの残した記録は、現在静岡県湖西市の新居関所史料館で大切に保管され、当時の様子を伝えています。
その後の漂着者たち
鳥島の物語はこれで終わりではありません。
平三郎たちが島を去ってから14年後の1753年、今度は大阪の船が難破し、船乗りたちが鳥島へ流れつきました。
彼らもかつての平三郎たちと同じように洞くつを見つけて入ったところ、そこには木の板二枚と火打石・釜・包丁などの道具類が残されていました。木の板には、鳥島で生活していく術が記され、道具類は傷まないようアホウドリの油で保護されていたということです。平三郎たちが、のちに来るかもしれない漂着者のために残していったものです。
さらにその後、「無人島長平」というあだ名で有名な野村長平や、ジョン万次郎らも漂着。彼らの生活した様子も、貴重な記録として現代まで伝わっています。
佐太夫や平三郎たちの後、最終的に江戸時代の間に75名が鳥島に漂着し、そのうち62名が本土への生還を果たしました。彼らが漂着した時も、木の板は残っていたといわれています。
「自分たちの前にも漂着者がいて、彼らは生きて本土へ帰った」その動かぬ証拠が新たな漂着者の心の支えとなり、彼らの命を救ったと言っても過言ではないでしょう。
左太夫や平三郎たちの命がけの奮闘は無駄ではなかったのです。
おわりに
時代は明治になり、鳥島は入植者によって開拓されました。彼らによって道路や学校も整備されます。
しかし明治35年(1902年)8月、鳥島は突如大噴火。島民125人が亡くなる大惨事となってしまいました。
それから120年あまり、鳥島は再び無人島になりました。現在は国の天然記念物に指定され、上陸や立ち入りは厳しく制限されています。
前後編の2回にわたって、鳥島でのサバイバルの歴史をとりあげてみましたが、いかがでしたか?人間は追い詰められると、想像を超える力を発揮することがあると言いますが、今回の事例はまさにその好例なのではないでしょうか?
個人的には船頭左太夫のリーダーシップや機転がすばらしいと感じました。みなさんはどのような感想を持たれたでしょうか?
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ではまた次回!
☆参考資料
「ダークサイドミステリー 謎の無人島 鳥島サバイバル ~人の生命を試す島~」ーNHK BSP
【歴史】感想:歴史番組「ダークサイドミステリー」シーズン4(2022年版)「謎の無人島 鳥島サバイバル ~人の生命を試す島~」(2022年6月2日(木)放送) – セントラル・ステーション分室
絶望の島のサバイバル 前編 19年も無人島で過ごした人々