こんにちは、きんいろ旅程です。
仙台市若林区の陸奥国分寺薬師堂。ここでは毎月八のつく日になると八日市が開かれ、食品やお菓子、民芸品を求める多くのお客さんでにぎわいます。しかし、ここでかつて馬の市が開かれ、「木下駒」(きのしたごま)と呼ばれる馬の形の玩具が売られていたことは、今となってはあまり知られていません。
木下駒は黒地の上に赤緑白で模様を描き、胸をそらせた凛々しい姿の木馬で、鞍には美しい菊花模様が描かれています。馬好きならずとも目を引く美しい玩具です。木皿駒と呼ばれたこともありました。似た形をしたものに青森県八戸市の「八幡馬」や福島県三春町の「三春駒」などがあり、この3つは「日本三名駒」と呼ばれています。
今回は、そんな仙台の伝統工芸「木下駒」の発祥と歴史について調べてみました。どうぞ最後までお付き合いお願いいたします。
木下駒の発祥
木下駒がいつの頃から作られるようになったのか、はっきりしたことはわかっていません。しかし、かつて仙台付近は名馬の産地であったようで、一説によると奈良時代から多賀の国府・多賀城が陸奥国分寺に馬の市を立てていたようです。
その際、特に選りすぐられた馬は京の帝へ献上されました。京へ送る馬は必ず国分寺の馬市から選ばれる慣習があったそうです。その際、選ばれた馬は献馬のしるし、馬形を胸に下げて歩きましたが、その木製の馬形の恰好をまねて木下駒が考案されたといわれています。
その後、木下駒は馬市で売買されるようになりました。このころは、馬の安全を薬師堂に祈願した後、木下駒を買って神棚に置いたり厩(うまや)につるしたりする風習があったそうです。木下駒は馬の健康や繁栄を象徴するものとして広く親しまれました。
また、「仙台市史」には、旧暦3月3日に陸奥国分寺薬師堂にある白山神社の祭礼に合わせて売り買いされる習慣があったとも記されています。
馬市の移転と木下駒のその後
政宗公が仙台を開府すると、馬市は現在の国分町付近に移りました。仙台の国分町は国分寺付近の住民が移転してできた町なので、馬市も引き継いだのでしょう。
この時、木下駒の売り出しをしていたのは馬の仲買人をしていた木皿家だったため、「木皿駒」と呼ばれるようになりました。木皿家はこの商売によって大きな利益を得たとも伝わっています。
また伝わるところによると、木下駒は三春駒の祖であり、明治の初めまでは荒削りのまま三春に送られて加工されていたともいわれています。
その後、昭和10年頃に一時断絶しました。理由はよくわかりません。そして時代の変化に対応できなかった木皿家の没落などもあってしばらく復活することはありませんでした。
戦後、伝統が復活し、木下駒の製作は仙台市通町の本郷家、南鍛治町の柴田商工、茂庭台の菅野家で行われるようになりましたが、後継者に恵まれず再び途絶えました。
2023年現在、専門の職人はいなくなりましたが、仙台市太白区の社会福祉団体「工房けやき」が製作を行っており、木下駒は市内の百貨店などで買い求めることができます。
おわりに
今回は仙台の伝統的な玩具「木下駒」の発祥と歴史についてご紹介させていただきました。いかがでしたか?
個人的には、何度も断絶しながら、それでも現在まで現物や製作法が残っていることはうれしく思いました。そしてもっと世に知られてほしい仙台の伝統工芸だと感じましたね。ちなみに昔は馬の安全や健康を祈る玩具でしたが、現在では子供の健やかな成長を祈って売られています。
今回は資料集めが大変で、図書館の司書さんにも手伝っていただきました。また木皿家の関係者様にもお話を聞くことができ、とても助かりました。ご協力いただいた皆さん、本当にありがとうございます。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
次回もお楽しみに!
☆参考資料
仙台事物起源考ー菊地勝之助:著
仙台市史 特別編3美術工芸
仙台発なるほど謎解き探訪記ー長谷川正人:著 本の泉社:刊
仙台馬市 – Wikipedia